稚内市(わっかないし):41,595人(△5.0%) |
日本最北端に位置する稚内市は、宗谷海峡をはさんで東はオホーツク海、西は日本海に面し、宗谷岬からわずか43kmの地にサハリン(旧樺太)の島影を望む国境の街です。稚内とはアイヌ語の「ヤムワッカナイ」に由来し「冷たい水の流れる沢」という意味です。
水産・酪農・観光を基幹産業とする宗谷地方の行政、経済の中心地で、近年、国際交流が進展していく中で、ロシア連邦をはじめとする北方圏諸国への玄関口としても脚光を浴びています。特にミズダコは有数の水揚げ量で、冷凍したタコを薄く切ってしゃぶしゃぶにする「たこしゃぶ」が名物料理です。
1879年 宗谷村に戸長役場が設置される。(稚内市の開基)
1900年 宗谷村から分村し、一級町村制を施行する。
1949年 市制施行。
1955年 宗谷村を合併する。
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猿払村(さるふつむら):2,940人(△1.3%) |
猿払村は日本最北の村で、カナダのモントリオールとほぼ同じ緯度にあたります。猿払村の東はオホーツク海の海岸線、西は丘陵性山地を境に豊富町、南は幌延町、浜頓別町、北は稚内市に隣接しています。
総面積は590Kuを有し、村としては北海道で一番広く、総面積の約8割が山林や原野です。東部は約33kmの海岸線を通じて豊富な水産資源を誇るオホーツク海を臨み、西・北・南部は背梁を低下しながら幌尻山・エタンパック山を中心に、標高200mから400m前後の宗谷丘陵が連なっています。中央部から東部にかけては広大な耕地や原野が広がっており、役場所在地の鬼志別を中心として大小11の集落が形成されています。
また、宗谷丘陵を水源として猿払川など6水系が緩やかな流速で屈曲しながらオホーツク海に注いでおり、下流域には大小の沼や湿原を形成しています。土壌及び地質は、山地及び丘陵地は右生層の砂岩・泥炭・残積土壌であり、海岸段丘地は、砂岩・夏岩・砂層・海砂等の風化推積層よりなる洪積土壌、低湿地は沖積土壌及び泥炭土壌です。
猿払の語源はアイヌ語の「サロプト」「サラブツ」から転化したもので「葦(芦)川口」「葦(芦)原の河口」を意味しています。サルフツの地名は、文化4年(1807)北方からの外国侵略の防備巡察に来道した近藤重蔵にしたがって宗谷に来た幕吏田草川伝次郎の「西蝦夷日記」に登場し[サルブツ・・・蝦夷家十一件、男女五十四人、同所乙チウトラアイノ、同カテレバアイノ]とあります。これより先、寛政10年(1798)7月6日、宗谷に来た幕吏三橋藤右衛門の随行の武藤勘蔵が巡察模様を記した「蝦夷日記」に、藤右衛門が宗谷の前浜にソウヤをはじめ、トンベツ、トママエまでの役付や主だったアイヌを集め大酒宴を開いたが、この席にサルフツから嶋綿入りを着た「トンハライ」なるアイヌが招かれたと書き残されています。
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浜頓別町(はまとんべつちょう):4,582人(△7.6%) |
浜頓別町は、北海道最北の宗谷支庁の東に位置する町である。町名の由来はアイヌ語「トウ・ウン・ペツ」(沼から出る川)に由来します。
クッチャロ湖は、浜頓別町にある汽水湖。北西の小沼と南東の大沼の二つの湖盆からなり、湖と名のつくなかでは日本最北のもので、水深は約3mほど。北オホーツク道立自然公園に含まれ、渡り鳥の中継地として有名。日本最大のコハクチョウが毎年2万羽ほど、他にもヒドリガモ、オナガガモなどカモ類が多く飛来します。1989年、クッチャロ湖および周辺の1,607haの地域がラムサール条約登録湿地となりました。日本ではウトナイ湖、伊豆沼・内沼に次ぐ3番目の登録湿地。
かつては天北線、興浜北線が通っていましたが、現在は廃止されています。また、町内では大自然の中で学んでもらおうと「北オホーツクの大自然で学ぶ会」が全国から山村留学を募っています。
1916年4月 枝幸村(現枝幸町)から分村、頓別村となる。
1921年4月 中頓別村(現中頓別町)を分村。
1951年11月 町制施行、町名を頓別町から浜頓別町に改称する。
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中頓別町(なかとんべつちょう):2,289人(△9.1%) |
中頓別町は、宗谷支庁の南西部に位置する町。山間部に位置し、四方を山に囲まれた地形で町面積の8割が森林です。
町名はアイヌ語「トウ・ウン・ペツ」(沼から出る川)に由来。中頓別はかつて砂金が採掘されたことで有名です。明治30年代、砂金の発見とともに、中頓別に一攫千金の夢を追って全国各地から1万人以上の人々がやってきました。ペーチャン川は特に砂金がよく採れた場所で、今も熱い時代に還って砂金掘体験ができます。
中頓別鍾乳洞は、新生代第三紀(約1,000万年前)の新しい地質時代の石灰岩中にできた洞穴という点で珍しいものです。ここでは、一帯の様々な石灰岩地形を含めた洞穴の形成史や、中頓別の地史を学ぶことができます。かつては海の底で貝やフジツボの殻が密集して堆積し、やがて石灰岩になりました。
1909年 道徳安二氏が枝幸郡第10部(現在の中頓別町を区域とする)の部長となる。
1921年 頓別村(現浜頓別町)から分村。
1949年 町制施行。
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枝幸町(えさしちょう):9,809人(△6.7%) |
枝幸町と歌登町が平成18年3月20日に合併し、新しい「枝幸町」が誕生しました。ふたつの町が合併し、森と海のつながりや豊かな自然の恵みを生かした産業の振興、多面的なまちづくりが期待されています。
四方を山陵で囲まれた歌登地区では、温泉付きホテルやコテージ、ゴルフ場などが整備された健康回復村で大自然の中で心身のリフレッシュができ、延長51qに達するオホーツク海に面した枝幸地区では、海明けとともに始まるタラバガニや漁獲量日本一の「毛ガニ」は枝幸町の名前を全国にアピールする特産品となっており、毎年7月には「枝幸かにまつり」が開催され、道内外からの観光客で賑わいます。町名の由来はアイヌ語「エサウシ」(岬)から。
1878年 枝幸郡に枝幸・頓別・歌登・礼文の四村を設置。村名及び地番を制定する。
1891年 9月、枝幸外3カ村戸長役場が設置される。
1909年 4月、二級町村制施行。
1916年 4月、頓別村(現浜頓別町および中頓別町)を分村。
1923年 4月、一級町村制施行。
1939年 9月、歌登村(現歌登町)を分村。
1947年 10月、町制施行。
1978年 開基100年記念式典が行われる。
1998年 開基120年。
2006年 3月、歌登町と合併。
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豊富町(とよとみちょう):4,850人(△7.1%) |
北は稚内市、南は幌延町、東は猿払村に堺し、西は日本海に面しています。
各市町村との境界は、起伏続きの山脈が連なっていますが山系は比較的低く、僅かに東方にポロシリ山(426m)、恵丹臼山(313m)があるのみで、その他の山々はいずれも260m以下です。中央を流れるサロベツ川は、北見山脈に源を発するメナシベツ川、下エベコロベツ川と合流し延々蛇行し海岸地帯を迂回して天塩川に注いでいます。また、メナシベツ川、下エベコロベツ川の上流一帯は森林地帯であり、サロベツ川流域は一大平原を形成しています。
利尻礼文サロベツ国立公園の一部であるサロベツ原野を有しており(サロベツ原野は、2005年11月にラムサール条約に登録)、豊富町の広大な牧場と広大なサロベツ原野の風景は、北海道でも1、2を争う雄大さ。また、日本最北の温泉街である豊富温泉があります。
町名の由来はアイヌ語「エペ・コロ・ベツ」(なんでも豊富にある川)から。酪農も盛んで、牛乳は「豊富牛乳」のブランドで道内に広く流通しています。観光客は年間およそ30万人と観光産業も盛んです。
1878年 現在の豊富町に沙流村が設置される。
1909年 幌延外1ヶ村戸長役場(現在の幌延町)が設置される。
1919年 幌延、沙流の両村を合わせて、幌延村(現在の幌延町)とし、幌延村に二級町村制を施行する。
1940年 幌延村(現在の幌延町)から豊富村として分村・独立し、二級町村制を施行する。
1948年 留萌支庁から宗谷支庁に移動。
1950年 稚内市と境界線を変更。
1959年 町制施行。
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礼文町(れぶんちょう):3,410人(△11.6%) |
礼文町は、北緯45度30分14秒、東経141度4分16秒、稚内の西方60キロメートルの日本海上に位置する日本最北の島です。
最高峰の礼文岳(標高490m)を中心に南北29km、東西8km、 面積約82kuのなだらかな丘陵性の地形が広がっていますが、冬の厳しい偏西風を受ける西海岸は切り立った断崖絶壁が連なり、東海岸はなだらかに山並みが海へと続いています。夏には約300種の高山植物が咲き乱れる風光明媚な花の島、そして海の幸豊かな漁業と観光の島です。町名はアイヌ語「レプンシリ」(沖の島)に由来します。
四季を通じ、海の幸に恵まれ夏はエゾバフンウニや利尻昆布の産地として有名で、礼文島はウニ丼の発祥地としても知られています。また最北の島として観光が盛んです。海抜0mから咲く高山植物の島、花の浮島としても有名です。島特有の厳しい気候条件が気温を低下させるため、そこに適応した種類だけが育ち、春の訪れとともに次々と花を咲かせます。夏季(6月頃〜)にはレブンソウ、レブンアツモリソウ、
レブンウスユキソウ、レブンソウなど多くの礼文島固有の稀少な高山植物が咲き乱れ、咲く花の種類は、2〜3週間ごとに変化します。
1685年(貞享2年)松前藩領地宗谷場所付属場所として開ける。
1878年 礼文郡各村戸長役場が香深に設置される。
1892年 船泊村(現町北部)が分村。
1956年 香深村の財政悪化もあり船泊村、香深村が対等合併、礼文村となる。
1959年 町に昇格、礼文町となる。
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利尻町(りしりちょう):2,951人(△13.6%) |
北海道の北端・稚内市から西方約53Kmの日本海に浮かんでいるように見える島、利尻島の西南端に位置し、島の中心には秀峰利尻富士(1,721m)がそびえたっています。
利尻町は昭和31年に利尻島内の四つの自治体の中から仙法志村と沓形町が合併してできました。春から夏にかけては、数多くの高山植物が咲き、リシリコマドリをはじめ多くの野鳥がさえずる自然の宝庫です。また、全国的に有名となった「利尻昆布」や「ウニ」など日本海の海の幸にも恵まれた漁業と観光の町です。町名の由来は、アイヌ語「リシリ」(高い島)から。
1899年 沓形村戸長役場が開庁する。
1900年 仙法志村戸長役場が開庁する。
1902年 沓形村と仙法志村に、二級町村制が施行される。
1924年 沓形村に一級町村制が施行される。
1949年 沓形村が町制施行される。
1956年 9月、沓形町と仙法志村が合併、利尻町となる。
1999年 利尻町開基100年記念式典が行われる。
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利尻富士町(りしりふじちょう):3,239人(△8.4%) |
利尻富士町は、日本の最北端稚内より52qの海を隔てて、東経141度14分、北緯45度10分、日本海の北方に浮かぶ利尻島の東側を占める漁業と観光を中心としたまちです。
気候は沿岸一帯を流れる対馬暖流によって受ける影響が極めて大きく、温暖で夏は涼しく冬は積雪が少なく恵まれています。四季を通じての最高気温は29度、最低でも零下15度以下になることはまれですが、季節風が強く、典型的な北方離島特有の自然条件と言えます。
明治9年、鴛泊・本泊・沓形・鬼脇・石崎・仙法志の6ヵ村を統轄して宗谷に区務所が置かれ、鴛泊に戸長事務取扱所を置いたのが利尻島自治行政の始まりとなっており、明治13年(1880年)に利尻郡各村戸長役場を鴛泊に設置され、人口862人、戸数91戸とこの頃からニシン・昆布を中心とした漁業が盛んになりました。
昭和25年(1950)には道立自然公園に指定され、観光客が増え始めます。昭和31年に鴛泊村と鬼脇村が合併し東利尻村が誕生しましたが、この年からニシン漁業が皆無状態となり沖合漁業への転換が行われるようになりました。昭和34年に町制が施行され、昭和40年7月に利尻・礼文・サロベツ国定公園に指定されてから、夢の浮島、日本最北端の離島観光地として全国の注目を浴び、観光客も急激に増加をみるようになりました。
昭和55年(1980年)に開基100年を迎え、平成2年(1990)9月30日に町名を「利尻富士町」に改称しました。
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