空知エリア【Sorachi】


 空知エリアは札幌圏と旭川市との間に延びる地域で、夕張市、岩見沢市など10市15町からなっています。東西約70km、南北約180kmに及ぶ広大な内陸地帯で、中央を石狩川が縦走し、南西部にかけて豊かな石狩平野が広がっています。

 肥沃な土壌を活かし、稲作を中心に野菜やそば、花卉など多様な農業が展開されていて、岩見沢市の「クラインガルテン」、深川市の「アグリ工房まあぶ」、砂川市の「アップルガーデン」や秩父別町の「なつみの里」など都市農村交流の施設も多数あります。 空知平野の水田を潤す「北海幹線用水路」は、農業専用の用水路として日本最大規模を誇り、平成16年に北海道遺産に選定されました。水路は空知北部の赤平市から砂川市、奈井江町、美唄市、三笠市、岩見沢市、南幌町と北から南へ約90qに及び、受益面積は約1万6500haに達しています。

 平野部には三日月湖や沼も多く、ニジマス、ドジョウ、ヤツメウナギなどが、また朱鞠内湖(しゅまりないこ、幌加内町)、桂沢湖(三笠市)、シュ−パロ湖(夕張市)などの人造湖では、ワカサギ、ヤマメ、ニジマスどの孵化放流が行われています。

 かつてのこの地域を支えていたのは炭鉱で、明治21年に現夕張市で石炭の大露頭が発見されたのを皮切りに空知エリアに次々と炭鉱が開山。しかし平成7年、北炭空知炭鉱(歌志内市)の閉山をもって空知エリアの炭鉱群もその役目を終えます。その後、平成13年に「空知に残る炭鉱関連施設と生活文化」として北海道遺産に選定され、今も産業遺産として黒いダイヤを求めた当時の面影を空知エリア各所で見ることができます。



空知エリアの市町村

夕張市/岩見沢市/美唄市/芦別市/赤平市/三笠市/滝川市/砂川市/歌志内市/深川市/南幌町/奈井江町/上砂川町/由仁町/長沼町/栗山町/月形町/浦臼町/新十津川町/妹背牛町/秩父別町/雨竜町/北竜町/沼田町/幌加内町

凡例(箇所)
保育所
幼稚園
小学校
中学校
高等学校
病院
診療所
歯科診療所
公民館
図書館

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夕張市(ゆうばりし):13,002人(△12.1%)
 
 夕張市は北海道のほぼ中央、空知地方の南部に位置し、東西24.9キロメートル、南北34.7キロメートル、面積763.20平方キロメートルの街です。名の由来はアイヌ語の「ユーパロ」(鉱泉の湧き出るところ)が語源といわれています。

 夕張市一帯は夕張山地の豊かな森林や清流に育まれた丘陵で、夕張岳(1,668m)から流れる夕張川とその支流が市内のほぼ中央を貫き、流域に沿って帯状に街が形成されています。山や丘陵に囲まれた地形的特徴から、四季の変化や昼夜の気温の変化が大きく、また、風はまわりの山々にさえぎられて弱められています。降水量は本道の平均的な量で積雪は近年少なめです。

 明治7年(1874)、アメリカ人鉱山地質学者ベンジャミン・スミス・ライマンの探検隊が夕張川上流の炭鉱地質を調査、その後明治21年(1888)、道庁の技師坂市太郎が志幌加別川の上流で石炭の大露頭を発見したことから「炭鉱の街夕張」の歴史が始まりました。
 明治24年(1891)の炭鉱開始以来、炭鉱の街として栄え、昭和18年(1943)には市制が施行されました。昭和35年(1960)には北炭(夕張鉱業所・平和鉱業所)・三菱(大夕張鉱業所)の3大鉱業所を中心に北炭機械 工業(鉱山・産業機械製造)、北炭化成工業所(コークス・化成品製造)などの関連産業も発達し 116,908人の人口を抱える都市となり、一時は大小24の鉱山、人口12万人を数えましたが、昭和40年(1965年)代に入って次々に閉山。「炭鉱の街夕張」としての歴史に幕を閉じました。現在、石炭の歴史村にある「石炭博物館」「炭鉱生活館」「模擬鉱」などに、炭鉱の街夕張の歴史や生活が再現されています。

 炭鉱に替わって夕張の顔となったのが「観光」です。かつての炭鉱跡地を利用し、昭和58年(1983)にオープンした「石炭の歴史村」をはじめ、北海道屈指のスキー場マウントレースイ、ゆうばり国際冒険・ファンタスティック映画祭をはじめとする多彩なイベント、全国的にその名を知られる銘産夕張メロンを原料とした特産品開発で活性化を図っています。

 夕張メロンは「夕張キング」、「スパイシー・カンタロープ」(父)と「アールス・フェボリット」(母)を交配した赤肉のメロンで、1961年に誕生。高級メロンとして有名で、初セリでは80万円の値が付いたこともあります。ハウス栽培とトンネル栽培があり、ハウス栽培は7月中旬までに出荷し、トンネル栽培は9月までに出荷します。夕張市農業協同組合に集荷され、厳格な検査に合格したものだけを「夕張メロン」のブランドで出荷しています。夕張メロンは夕張市農業協同組合の登録商標です。



夕張市カントリーサイン

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岩見沢市(いわみざわし):93,672人(△2.3%)

 平成18年3月27日、岩見沢市に栗沢町・北村が編入合併しました。
アイヌ語の地名が多い北海道において、岩見沢は数少ない和名の都市です。明治11年に幌内煤田を開採のため、開拓使は札幌〜幌内間の道路を開削に当たり、工事に従事する人たちのため、当市の北部、幾春別川の川辺に休泊所を設け、ここで浴(ゆあみ)して疲れを癒したといわれています。当時の人々にとって、この地は唯一の憩いの場所として、「浴澤」(ゆあみさわ)と称するようになり、これが転化して「岩見澤」(いわみざわ)と呼ばれるようになったといわれています。

 明治15年11月13日、幌内媒田鉄道の幌内〜手宮間が全線開通し、明治16年に公布された移住士族取扱規則により、この地に札幌県勧業派出所が設置され、明治17〜18年には、山口県・鳥取県ほか10県からの士族277戸、1,503人の集団移住により、次第に市街が形成され、明治17年10月6日、設村の告示により岩見澤村村となり、戸長役場、郵便局が設けられました。

 明治22年には、岩見澤・滝川・忠別太(現旭川)間、明治23年には岩見澤〜夕張間に夕張道路が開通。明治24年に岩見澤〜歌志内間、同25年に岩見澤〜輪西(室蘭)間の鉄道が開通し、岩見澤駅も元町から現在地に移転、新市街地が形成されるとともに、陸上交通の要衝となりました。明治30年10月には空知支庁が設置され、同33年7月、1級町村制による岩見澤村となり、人口も12,518人と村勢は急速に伸展。同39年には町制を施行し、昭和18年に市制を施行。同35年に岩見澤〜新篠津を結ぶ岩見澤大橋が完成し、石狩川北岸地帯の豊富な資源開発と生産物資の集散地の拠点として、空知における行政・産業経済・教育文化などの中核となりました。


岩見沢市カントリーサイン

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美唄市(びばいし):29,073人(△6.8%)

 「びばい」はアイヌ語でもともと「ピパオイ」(カラス貝の多い所)に由来すると言われています。西部は石狩川東岸の石狩平野、東部は夕張山地につづく丘陵地帯です。宮島沼はマガンの飛来地として知られ、ラムサール条約登録湿地となっています。
 かつては三菱鉱業・三井鉱山の一大炭鉱があり、道内有数の石炭の町として栄えました。最盛期である1950年代の人口は9万人以上を数えたましたが、現在はその大半が閉山し、北菱産業株式会社が盤の沢地区で露天掘りを電力会社向けに行っているのみです。

1886年(明治19) 富山県人福島磯次郎が市来知村(現三笠市)から美唄川南岸に移住、渡し守を開業し最初の移住者となる。
1890年(明治23) 沼貝村誕生。
1925年(大正14) 町制施行により沼貝町に昇格。
1926年(大正15) 美唄町に改称。
1950年(昭和25) 市制施行により美唄市に昇格(北海道の自治体として15番目の市)。
1972年(昭和47) 三菱美唄炭鉱閉山。美唄鉄道廃止。美唄市営バス運行開始。
1973年(昭和48) 三美炭鉱閉山。北菱我路炭鉱閉山。


美唄市カントリーサイン

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芦別市(あしべつし):18,898人(△10.1%)

 明治26年、山形県からの移住者によりはじめて芦別市の地に開拓の鍬が入れられ、以来、富山・石川・福井県などからの移住者により開拓が進められました。明治33年、歌志内村から独立して、「芦別村」が誕生し、以後、 昭和16年に町制、昭和28年に市制がそれぞれ施行され、現在に至っています。明治30年より掘りはじめられた石炭は、大正2年、三菱鉱業が本格的に開鉱したのを契機に徐々に拡大し、「炭鉱のまち芦別」を築きました。

 市域中央部を北流する芦別川をはじめ、野花南川、パンケホロナイ川などの支流を集めて空知川が北部を西流します。東南部には、夕張岳が走り、南部には、幾春別岳、礼振峰、芦別岳など1,000mを超える山々がそびえます。
 町名は、市域南端から中部にかけて南北に貫流するする芦別川に由来する。芦別とはアシュペツ、アイヌ語で「川底深く険しいところ」の意。

1893年 歌志内で魚屋を営んでいた佐藤伝治郎(山形県出身)がパンケホロナイ川右岸に移住。(芦別開基)
1897年 奈江村(現在の砂川市)と滝川村(現在の滝川市)の一部を歌志内村(現在の芦別市も含む)として分離し、歌志内村戸長役場(現在の歌志内市)を設置。兜谷徳平ら班渓幌内炭山発掘 。
1900年 歌志内村から、芦別村として分立し、芦別村戸長役場を設置。
1906年 二級町村制施行「芦別村」。
1923年 一級町村制施行「芦別村」。
1941年 町制施行「芦別町」。
1953年 市制施行「芦別市」。



芦別市カントリーサイン

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赤平市(あかびらし):14,401人(△8.6%)

 赤平市は、明治24年に開拓の鍬がおろされ、明治30年には道路が、大正2年には鉄道が開通しました。大正7年に、茂尻炭礦が開鉱し、「石炭のまち」の歴史が始まりました。

 その後も人口が増加し、大正11年4月1日、歌志内村から分村して2級町村赤平村が誕生、さらに昭和18年2月11日町制を施行、そして昭和29年7月1日道内18番目の市となりました。昭和35年には、人口もピークの59,430人を数えましたが、昭和30年代後半から、石炭産業の衰退を余儀なくされ、平成6年には最後の一山が閉山し、赤平の「石炭の歴史」に幕を下ろしました。その後は、ズリ山・立坑などの炭鉱産業遺産を生かした観光分野に力を入れています。

1891年 入植開始。
1922年 二級町村赤平村、一級町村「歌志内村」より分立。
1929年 一級町村制施行「赤平村」。
1943年 町制施行「赤平町」。
1954年 市制施行「赤平市」。


赤平市カントリーサイン

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三笠市(みかさし):11,923人(△12.1%)

 明治元年(1868)に、幌内で燃える石「石炭」の炭層の露出面 が発見され、 明治12年(1879)幌内炭鉱が開坑されるとにわかに人の往来が盛んになり、明治15年(1882)6月に市来知村が開村されました。このときが三笠市の誕生です。

 この年の6月に、北海道開拓を目的として空知集治監(現在の刑務所)が、市来知(いちきしり)に設置され、11月には幌内炭坑から掘り出された石炭を輸送するための鉄道が幌内と手宮(小樽)間に北海道で最初(全国で3番目)に開通しました。明治19年(1886)には、幾春別炭坑が開坑し、以後石炭のまちとして栄えてきました。 昭和32年には桂沢ダムが完成し、湖が誕生。その桂沢湖周辺からはアンモナイト化石やエゾミカサリュウ(国の天然記念物に指定)等の化石が発見され、アンモナイト化石のまちとしても注目を集めています。

 空知集治監にあった裏山が奈良の三笠山に似ているという、囚人が望郷の念をこめて当時から三笠山と呼んでいました。明治39年(1906)、市来知・幌内・幾春別の三村合併のときにこの山の名を取って三笠山村としました。昭和17年に三笠町が誕生し、昭和32年に三笠市(北海道内で22番目の市)となりました。


三笠市カントリーサイン

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滝川市(たきかわし):45,550人(△2.8%)

 滝川市の語源は、アイヌ語の「ソーラプチ」=「滝下る所」を意訳したものです。 また、空知川の中流には滝のような段差がありアイヌの人々から「ソーラプチペツ」=「滝のかかる川・滝の川」と呼ばれており、滝川という地名がつけられました。

 滝川市の歴史は、明治23年北海道庁令第1号によって滝川村戸長役場がおかれたことに始まります。この年、北方の警備と開拓のため屯田兵440戸が入植し、同27年には江部乙に400戸の屯田兵が入植して開拓が進められ、これら屯田兵の往来と生活物資の供給、上川道路の開削に伴う資財の供給で滝川は大いに栄えました。

 明治31年上川鉄道の開通、水害の発生で滝川市は、交通の要衝としての地位を失うとともに水害の被害で大きな打撃を受けましたが、 大正2年滝川と道東を結ぶ上富良野線(現根室本線)の開通によって再びその地位を回復しました。
 昭和に入ってから石炭産業の隆盛によって赤平・芦別など産炭地からの石炭をはじめとする物資の輸送が活発になり、 滝川市発展の礎となりました。


滝川市カントリーサイン

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砂川市(すながわし):20,068人(△4.8%)

 東は夕張山系を境に赤平市、歌志内市、上砂川町に隣接した丘陵地帯が続き、西は石狩川を挟んで新十津川町、浦臼町に、北は空知川を挟んで滝川市、そして南は奈井江町に隣接した平地地帯が広がっています。

 砂川の語源は、アイヌ語のオタ・ウシ・ナイを意訳したものです。「オタ」は砂、「ウシ」は多い、「ナイ」は川を意味しています。石狩川と空知川に抱かれるような地形の砂川には、上流に歌志内を源とする「ペンケオタウシナイ川」と、下流に市街の中央を流れる「パンケオタウシナイ川」があり、アイヌ語の地名「オタウシナイ」が生まれたものと考えられています。

1890年 奈江村戸長役場が設置される。
1897年 一部を歌志内村(現在の歌志内市)として分離する。
1902年 二級町村制施行「奈江村」。
1903年 奈江村を砂川村と改める。
1907年 一級町村制施行「奈江村」。
1923年 町制施行「砂川町」。
1944年 砂川町の南部が奈井江村(現奈井江町)として分立。
1949年 砂川町の東部が上砂川町として分立。緑化都市宣言を行う。
1958年 市制施行。


砂川市カントリーサイン

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歌志内市(うたしないし):5,221人(△12.1%)

 歌志内市は、その約75%を森林が占め、ペンケ山を主峰とする東部と南部は、他の600メートル前後の山々を境として芦別市に接し、北部は赤平山、かもい岳を境として赤平市に接しています。
 また、西南部から西部は、次第に拓けて砂川市と上砂川町に接しています。市内を西に向かって二分して流れる「ペンケウタシュナイ川」の名に由来しており、アイヌ語で、「砂のたくさんある沢」という意味です。
 明治24年に北海道炭砿鉄道株式会社の鉄道開通の際、その意をとって歌志内と称し、これを地名としました。

1890年 北海道炭礦鉄道空知採炭所開坑(歌志内開基)
1897年 歌志内村(現歌志内市・赤平市・芦別市)、奈江村(現砂川市)より分立。
1906年 二級町村制施行「歌志内村」。
1900年 芦別村(現芦別市)分立。
1919年 一級町村制施行「歌志内村」。
1922年 二級町村赤平村(現赤平市)分立。
1940年 町制施行「歌志内町」。
1949年 町域の一部が上砂川町町域の一部として分立
1958年 市制施行「歌志内市」。


歌志内市カントリーサイン

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深川市(ふかがわし):25,840人(△6.3%)

 北部から南に雨竜川が、南部には、北海道第一の長流石狩川が貫流し、この両河川を中心に両翼に開ける平地に市街地と水田、畑が形成されています。米作が主作物ですが、品質の良い長いもも有名です。最近は、隣の旭川市・幌加内町とともにそばの生産が盛ん。納内地区では林業も行われています。

 稲見山の山頂にはストーンサークル(音江の環状列石)があり、このあたりは縄文時代から人々が生活していたと考えられています。

 明治22年、上川道路(現国道12号(札幌-旭川間))が開通し、同年、華族組合雨竜農場 が設立されるなどにより本格的な開拓が始まりました。明治25年には稲の栽培に成功、明治29年からは水田試作がスタートします。また明治31年には空知太から旭川までの鉄道が開通、深川駅と納内駅が開業します。

 大正7年に深川村が町制施行。昭和38年には深川町・一已村・納内村・音江村が合併して深川市となりました。さらに、昭和45年に多度志町を合併し現在に至っています。

 それぞれの地区には今も故郷の伝統が息づき、香川県から一已地区に入植した人々が今も受け継ぐ舞、「猩々獅子五段くずし」や富山県から多度志地区に入植した赤岩家が伝承した舞、「多度志獅子舞」は市の無形文化財になっています。

 近年は基幹産業である農業を観光に生かしたアグリツーリズムの取り組みが盛んで、市外からも多くの方が体験交流に訪れます。

 国道12号と233号の交差点にある道の駅「ライスランドふかがわ」では、観光情報や特産品など深川市の情報が入手できます。農産物直売所や特産であるお米のギャラリーが農業の取り組みを学ぶこともできます。また2階の観覧展望デッキからは市内の様子が見渡せます。

 「アグリ工房まあぶ」は都市農村交流センターとして、コテージ、加工実習室、温泉、レストランなどが完備され、研修や体験の拠点として人気があります。
 周辺には「まあぶオートキャンプ場」が、戸外炉(トトロ)岬を越えた先には、深川スキー場があります。さらに「彩りの丘」では4月から10月頃まで、サクラやアジサイ、ルピナス、ブルーベリー、ハスカップなど季節に応じた花々を楽しむことが出来ます。

(資料提供:深川市役所)


深川市カントリーサイン

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南幌町(なんぽろちょう):9,568人(△2.3%)

 空知支庁南部に位置しており、幌向原野が広がっていた土地を開拓者が碁盤の目状に農地整理した田園地帯です。 川に囲まれた平地で、西を千歳川、南東を旧夕張川、北を夕張川が流れています。基幹産業は農業(稲作)で、ほかにキャベツが特産品。札幌市に近い地の利のよさから、ベッドタウンとしても発達し、南幌工業団地も置かれています。

1909年 二級町村制、空知郡幌向村(ほろむい)。
1962年 町制施行及び改称、南幌町(みなみほろ)。
1968年 読み変更、空知郡南幌町(なんぽろ)。


南幌町カントリーサイン

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奈井江町(ないえちょう):6,836人(△6.5%)

 道央空知の中心部、石狩平野のやや北部に位置し、東は夕張山系で芦別市と、西は石狩川で浦臼町・新十津川町と境し、南は美唄市、北は砂川市と平坦で地味肥沃な農地で接しています。奈井江は、アイヌ語の「ナヱ」から転訛したもので「砂多き川」の意味です。

1870年 伊達邦直、ナヱイ川とナヱ川両川口に標杭を立てる。
1890年 奈江村(現砂川市)戸長役場設置。
1895年 奈井江独立戸長役場(現奈井江町)設置。奈井江炭田発見。
1903年 奈江村を砂川村と改める。
1923年 奈江村、町制施行「砂川町」。
1944年 奈井江村(現奈井江町)、砂川町(現砂川市)より分立。
1950年 町制施行「奈井江町」。
1952年 上砂川町の一部を編入。


奈井江町カントリーサイン

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上砂川町(かみすながわちょう):4,770人(△7.8%)

 上砂川町は道央空知支庁管内のほぼ中央に位置し、歌志内市、砂川市、奈井江町、芦別市と境を接しています。東部は重畳たる夕張山脈が南北に走り、次第に西方に傾斜しながら、石狩平野に連なっています。辺毛山に源を発し、西流して石狩川にそそぐパンケウタシナイ川が町の北部を貫流して大きな沢をつくっており、本町はその沢沿いにある集落と、南東の山岳地帯で形成されています。

 明治20年に上砂川炭田が発見され、その後明治32年に福井県鶉村からの開拓者山内甚之助氏他8名によりこの地に鍬が入れられたのが発祥で、大正3年には石炭社である三井鉱山株式会社が起業しました。
 以来炭鉱の町として発展し、昭和24年には当時の砂川町、歌志内町の一部を分割して「上砂川町」誕生しました。

 その後、出炭量も増加し、昭和27年には最大人口の32,103人を数えましたが、エネルギー革命の急速な進行により昭和62年7月に閉山となり、73年の炭鉱の歴史に幕を閉じました。母町の砂川は、アイヌ語で「オタウシナイ」で「オタ」は砂、「ウシ」は多い、「ナイ」は川という意味から砂川と命名され、砂川の上流にあることから「上砂川」と決定し、分町によって「上砂川町」と命名されました。


上砂川町

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由仁町(ゆにちょう):6,475人(△6.3%)

 町の西部は長沼町から続く馬追丘陵。東部は平坦な低地で、栗山町との境には夕張川が流れる。南東部は夕張山地に続く森林地帯。アイヌ語の「ユウンニ」(温かい水が流れ出る場所)から地名がついたとされる。

1892年 由仁村が設置され、由仁村戸長役場が設けられる。
1893年 角田村(現在の栗山町)・登川村(現在の夕張市)・長沼村(現在の長沼町)を併合して、由仁外3村戸長役場を由仁村に設置する。
1895年 長沼村戸長役場(現在の長沼町)を分離する。
1897年 登川村戸長役場(現在の夕張市)を分離する。
1900年 角田村戸長役場(現在の栗山町)を分離する。
1950年 町制施行。


由仁町カントリーサイン

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長沼町(ながぬまちょう):12,399人(△0.4%)

 北広島市の東に隣接します。町名の由来はアイヌ語の「タンネトー」(細長い沼)に由来。西1線北15番地付近にタンネト−という沼がありました。現在はこのタンネト−の碑が残されています。

1895年 由仁外3村戸長役場(現由仁町)から長沼村戸長役場として独立する。
1902年 二級町村制、夕張郡長沼村。
1907年 一級町村制。
1952年 町制施行、長沼町。


長沼町カントリーサイン

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栗山町(くりやまちょう):14,352人(△3.3%)

 栗山は、アイヌ語の「ヤム・ニ・ウシ」に由来し、「栗の木の繁茂しているところ」に起源しています。
 1888年(明治21)5月16日、宮城県角田藩士泉麟太郎氏が「夕張開墾起業組合」を設立し、7戸24人が阿野呂川左岸(角田)に入植します。1890年(明治23)には角田村設置が告示され、1900年(明治33)角田村戸長役場が設置されました。
 開田事業、二股炭礦開坑、奥地開発、栗山市街地区の商工振興などで、1900年(明治33)の角田村の戸口が1,200戸、5,000人を突破。1902年(明治35)に二級町村制が施行され、自治体としての新生の第1歩を踏み出しました。
 二級町村制を5年経験した角田村は、1907年(明治40)に一級町村に昇格。昭和に入り、角田炭礦の発展とともに人口は20,000人を突破し、1949年(昭和24)に町制が施行され栗山町と改称、1963年(昭和38)には役場庁舎を角田から栗山へ移行しています。

 町内では明治・大正時代の建築物が残り、歴史と自然とが調和しています。
 1878年創業の小林酒造は、北の錦の銘柄で知られる老舗の造り酒屋。1901年に栗山に拠点を移し、道産米にこだわった酒造りで知られています。西洋建築のレンガ蔵、札幌軟石の石蔵などが一万坪の敷地に点在し、2006年6月現在、そのうち13の建造物について登録有形文化財として登録するよう文化財審議会が答申しています。

 また町内には芸術家が多数活躍されており、「くりやまカルチャープラザEki」では、その作品展が随時開催されています。

 ほかにも栗山町は、ユニークな地域づくりが進められています。地元商店50店余りが参加する商品の無料宅配サービス、2001年にスタートした「ハサンベツ里山20年計画」、2003年には地域通貨「クリン」の流通が本格的にスタートしています。

(資料提供:栗山町役場)


栗山町カントリーサイン

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月形町(つきがたちょう):4,785人(△7.0%)

 町名の由来は樺戸集治監の初代典獄(所長)、月形潔氏の姓に由来します。

 集治監とは、現在の刑務所とやや異なり、西南戦争などで生まれた国事犯対策にくわえ、北海道の開発の人的資源の確保をあわせた複合型行刑施設として1878年に元老院で設置の決議がなされたのがはじまりです。のちの樺戸集治監初代典獄となる月形潔が設置調査団団長として候補地の調査に当たりました。

1881年 樺戸集治監設置。初代典獄(所長)月形潔。月形村設置。
1899年 浦臼村(現浦臼町)が分立。
1906年 二級町村制施行。
1919年 樺戸集治監廃監。
1953年 町制施行、月形町。
1981年 開基百年。



月形町カントリーサイン

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浦臼町(うらうすちょう):2,418人(△8.5%)

 浦臼町は、北海道の中西部、空知支庁管内のほぼ中央に位置し、樺戸連山と雄大な石狩川に挟まれています。いくつもの川や沼が点在するほぼ平坦な地形で、気候は高温適雨、農業に最適な環境ですが、冬は雪が多く平年降雪量は13メートル〜14メートルにも達します。

 明治20年樺戸集治監の囚人によって、月形〜晩生内間道路を開削したことにより、開墾の鍬が入り、明治32年には月形村より分村、平成16年には開町105年の年を迎えました。

 稲作を中心とした純農村として発展し、現在は米はもちろん、花卉、メロン、ばれいしょ、アスパラガス、ぼたんそばなどの産地として知られています。また、ワイン用ぶどうづくりにも積極的に取り組み、作付け面積・収穫量で日本一となりました。ワインやジャム等もまちの特産品になっています。


浦臼町カントリーサイン

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新十津川町(しんとつかわちょう):7,682人(△4.8%)

 明治22年8月、奈良県吉野郡十津川郷で大水害が発生。奈良県吉野郡一帯をとてつもない豪雨が襲います。当時、6カ村からなる十津川郷は壊滅的な被害を受けるほどの大水害で、死者168人、全壊・流出家屋426戸、耕地の埋没流失226ha、山林の被害も甚大で生活の基盤を失った者は約3千人にのぼりました。

 生活再建のため、新たな生活地を求めて600戸、2489人が北海道への移住を決断。10月に3回に分かれて神戸から船に乗り小樽へ。小樽から市来知(現・三笠市)までは汽車で、その後徒歩で空知太(現滝川市)へ。遅い北海道の雪解けを待って、石狩川を渡り、入植した経緯を持ちます。明治23年6月のことです。

 明治30年代に入ると北陸地方などからの移住者により、水稲の作付けも本格化。明治35年の二級町村制施行、40年には一級町村制施行へ移行。
 大正期に入ると人口は1万5000人を超え、農業生産力や財政規模の面でも空知管内で屈指の自治体へと成長します。昭和32年1月に町制施行されました。


新十津川町カントリーサイン

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妹背牛町(もせうしちょう):3,943人(△6.8%)

 北海道空知支庁管内の北部、石狩平野北端・雨竜平野の中央に位置し、町域内はすべてが平坦です。市街地は石狩川右岸にあり、周辺部は水田が広がっています。妹背牛とは、アイヌ語の「モセユーセ」(「イラ草」の茂れる所)から転訛したもので、「望畝有志」と表記されていましが、1898年に現行の表記「妹背牛」に変更されています。

1899年 華族組合雨竜農場、雨竜平野に開場。
1923年 妹背牛村、深川村(現深川市)より分立。
1952年 町制施行 妹背牛町。


妹背牛町カントリーサイン

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秩父別町(ちっぷべつちょう):3,003人(△8.1%)

 秩父別町は明治28、29年に計400戸の屯田兵とその家族による入植によって築かれた町です。秩父別の名は、アイヌ語の「チックシベツ」に由来し、「通路のある川」を意味しています。北海道空知支庁管内の北部、石狩平野北端・雨竜平野の北部に位置し、町域内は東部の中山地区周辺をのぞけば平坦。雨竜川が町域の北から西にかけて流れ、沼田町などとの境界線になっています。市街地の周辺部には水田が広がっています。

1895年 屯田兵、秩父別に入植。
1901年 秩父別村、深川村(現深川市)より分立。
1906年 二級町村制施行。
1923年 一級町村制施行。
1959年 町制施行、秩父別町となる。


秩父別町

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雨竜町(うりゅうちょう):3,316人(△7.9%)

 空知支庁管内の北西、雨竜郡の南端に位置し東は石狩川を隔て滝川市、南は尾白利加川に沿って新十津川町、東北は雨竜川を隔て妹背牛町、北は恵岱別(えたいべつ)川を経て北竜町、北西は国定公園暑寒別岳を経て増毛町にそれぞれ接しています。

 周囲を流れる石狩・雨竜・尾白利加・恵岱別の各川の流域は概ね平坦で、肥沃な農耕地3千ヘクタールは、本町の富源とのどかな農郷を形成しています。気候は大陸性気候で寒暖の差が比較的大きいのが特徴です。

 明治22年の華族組合農場による開拓に端を発し、平成元年に開基100年を迎え現在に至る本町の歴史は、まさに農業の歴史でもありました。一方、本町のみならず我が国にとっても貴重な自然である雨竜沼湿原を含む一帯が平成2年に暑寒別天売焼尻国定公園に指定され、大勢の観光客が訪れる雨竜沼への玄関口としての顔を見せています。
 雨竜(うりゅう)とは、アイヌ語の地名「ウリロペツ」(鵜の多い川という意味)より転訛しもので、雨竜川の河口に多くの鵜が生息していたことから、このような名が付けられたといわれています。


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北竜町(ほくりゅうちょう):2,376人(△7.3%)

 明治26年5月、千葉県の団体入植に源を発し、明治32年7月、雨竜町から行政区を分離し、戸長役場を置きます。雨竜町の北に位置することから北竜町と称しました。

 その後、大正4年2級町村制施行、さらに昭和36年9月に町制が施行され、平成13年に開基110年を迎え、現在に至っています。雨竜川他三川流域を主として肥沃な土地と豊かな水資源のもと、稲作を基幹作目とした農業のまちです。低農薬、有機肥料等のクリーン農業により生産された米は、「ひまわりライス」の名で販売されています。また、水田転作により果菜類やひまわりの作付も盛んで北竜メロン、黄小玉スイカは道内でも有数の生産地となっています。

 ひまわりの作付面積100ヘクタールは全国一を誇っていて、最近はひまわりが観光として一躍脚光を浴びて、開花シーズンには20万人以上の観光客が訪れるようになっています。

1899年 雨竜郡雨竜村(現雨竜町)から分村、雨竜郡北竜村。
1914年 雨竜郡上北竜村(現沼田町)が分村。
1915年 二級町村制。
1961年 町制施行、北竜町。



北竜町カントリーサイン

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沼田町(ぬまたちょう):4,040人(△7.6%)

 空知支庁管内北部にある町。 恵比島駅付近は、NHK朝の連続テレビ小説『すずらん』のロケ地として知られています。町名の由来は町開拓の功労者沼田喜三郎の姓によります。

1894年 富山県出身の沼田喜三郎が郷里から18戸の移住を図る。
1914年 雨竜郡北竜村(現北竜町)から分村、雨竜郡上北竜村。
1918年 雨竜郡幌加内村(現幌加内町)が分村。
1919年 二級町村制。
1922年 上北竜村から沼田村に改称。
1939年 一級町村制。
1947年 町制施行、雨竜郡沼田町。


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幌加内町(ほろかないちょう):1,952人(△12.0%)

 空知エリアの最北部に位置します。南北に長い地形で四方を山に囲まれ、 町北部には人造湖「朱鞠内湖」があり、そこから石狩川水系雨竜川が南下しています。幌加内はアイヌ語で却流する川の意であり、新成生(しんなりゅう)、下幌加内(しもほろかない)の2自治区に跨る改修前の幌加内川は長蛇の如く曲がりくねって水流がはっきりしないようなところから名付けられたものです。

 幌加内はそばの産地として有名でソバの産地として知られ、作付面積・収穫量共に日本一。
 また冬の寒さが厳しいことでも知られ、1978年2月17日に町北部の母子里(もしり)の北大演習林で-41.2度が記録され、これは日本の最寒記録となっています。

1918年 雨竜郡上北竜村(現沼田町)から分村、雨竜郡幌加内村。
1923年 二級町村制。
1959年 町制施行、幌加内町。


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