小樽市(おたるし):142,165人(△5.7%) |
小樽市は、北海道西海岸のほぼ中央に位置し、海・山・坂など変化に富み、天然の良港を有する個性的なまちです。石狩湾に面し、古くから港湾都市として発展しました。歴史的建造物が数多く、全国有数の観光都市としても人気があります。
後志支庁管内では唯一の市であり最も多くの人口を抱えていますが、支庁は内陸の倶知安町に置かれています。北海道の中では寒暖の差が小さい海洋性気候で、暮らしやすく札幌・ニセコ・積丹とも近距離です。春はハイキング、夏は海水浴、秋は紅葉狩り、冬はスキーと四季を通じて楽しめます。
かつては町の中に運河が引き込まれ水運で栄えた町と有名でしたが、今は観光スポットとしてその一部が保存され当時の面影をとどめています。市街が海に向かって傾斜していることから、「坂の街」としても知られ、船見坂(ふなみざか)や地獄坂などそれぞれの坂に面白い名前がついています。
市名はアイヌ語の「オタ・オルナイ」(砂浜の中の川)が地名の由来とされています。小樽内川は今の星置川の下流で、小樽の東、石狩平野の砂浜の近くを流れていました。河口におかれたオタルナイ場所は、その後、西側に移転して小樽内川から離れましたが、オタルナイ場所としてその名を残したため、今の小樽がオタルナイと呼ばれるようになったと言います。
1865年(元治2) 幕府は「オタルナイ」を村並とする。
1869年(明治2) 「オタルナイ」を「小樽」と改める。
1922年(大正11) 市制施行される。
1923年(大正12) 第1回全日本スキー大会開催。小樽運河工事(第1期)完成。
1940年(昭和15) 高島町、朝里村を合併。
1965年(昭和40) 開基100年記念式典をあげる。市民憲章制定。
1996年(平成8) 観測史上最高の降雪を記録(1月9日)。
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島牧村(しままきむら):1,997人(△10.2%) |
後志エリアの西端にある漁業が主産業のまち。近年は景観を生かした観光にも力を入れています。村名はアイヌ語の「シュマコマキ」(背後に岩があるという意味)から。日本の滝百選に選ばれた賀老の滝の近くに、濃度の濃い天然の炭酸水(ドラゴンウォーター)が湧き出ており、龍神様の御神水と呼ばれ、飲用すると慢性消化器病、便秘、貧血に効果があります。江の島海岸は約4Kmにわたって続く砂浜で、メノウやジャスパーなどの銘石が散らばる美しい海岸。日本の渚百選にも選ばれています。
1872年 永豊村に戸長役場設置。
1899年 東部を本目村と西部を永豊村に大平川を境に分割。
1906年 二つの村を東島牧村と西島牧村とし二級町村制を施行。
1956年 両村を合併し島牧村を新設。
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寿都町(すっつちょう):3,744人(△9.0%) |
北海道南西部にあり、函館と小樽を結ぶ海岸線のほぼ中央に位置しています。寿都湾の海岸線32kmは弓状に張り、島牧村、蘭越町、黒松内町と接しています。アイヌ語の「シュプキペツ」(芽の多い川)が転訛したものだと言われています。
1669年 和人が集落を形成し、商場所で交易が盛んに行われる(寿都町の開基)。
1688年 神威岬から北への婦女子通行禁止令が敷かれ、寿都地方に土着する者が増加。
1869年 寿都郡、歌棄郡、磯谷郡などの後志17郡が設定される。
1872年 寿都郡、歌棄郡、磯谷郡に戸長を置く。
1879年 寿都郡役所、歌棄郡役所、磯谷郡役所が設置される。
1897年 寿都支庁が置かれ、寿都、歌棄、磯谷、島牧の4郡を管轄。
1900年 1級町村制を施行し、寿都町となる。
1902年 磯谷村が2級町村制を施行。
1906年 歌棄村が2級町村制を施行。
1910年 寿都支庁が廃止され、後志支庁の管轄となる。
1923年 樽岸村が2級町村制を施行。
1933年 政泊村を合併。
1955年 寿都町、樽岸村(中の川を除く)、歌棄村、磯谷村の1町3村が合併し、新しい「寿都町」となる。
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黒松内町(くろまつないちょう):3,457人(△4.2%) |
後志エリアの南端にある町で、ブナ北限の地として知られています。
安政3年、長万部から黒松内を経て歌棄に通じる陸路が完成して以来、黒松内は交通の要所となりました。明治4年、最初の入植者として伊達邦成の家臣13戸が黒松内市街地に入り、同年、斗南藩士24戸が作開に、山本玉吉他数戸が白炭にそれぞれ入植して、黒松内の開基となりました。その後、明治5年から明治24年にわたって白井川、大谷地に横村農場を開いたのをはじめ、各地に農場が開設されました。
本格的に本町の開拓が進んだのは、明治15年に後志興農会社が中ノ川・白炭地区の開墾事業を始めてからのことで、農場の整備を大幅に進めました。同時に明治36年に函館・熱郛間に鉄路が開通し、黒松内駅が創設されてからは、鉄道の町としても賑わいを見せるようになりました。しかし、昭和3年の室蘭本線開通によって、町からは鉄道関係者が減り、再び農業の町としての道を歩み始め、戦後は農業の多角経営や近代化が試みられ、特に酪農に主力を置くようになりました。
昭和30年に朱太川流域をはさむ黒松内村、熱郛村、樽岸村の一部(中ノ川地区)の3村合併によって三和村となり、昭和34年1月に町制を施行、同年5月に町名を現在の黒松内町に改めることとなりました。このころから立地条件を生かした乳牛の導入を開始、その後の農業の機械化と経営規模の拡大によって、後志管内随一の酪農の町となりました。
黒松内の語源はアイヌ語の「クル・マツ・ナイ」に由来するもので、意味としては「和人の女のいる沢」。その昔出稼ぎの漁夫を慕って来た妻たちが、この地で時化に遭い、そのまま滞在したためと言われています。なお、黒松内町の開村の日は、旧3村にそれぞれ戸長を置くことが布達された明治12年12月25日と定めています。
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蘭越町(らんこしちょう):5,803人(△6.6%) |
町名はアイヌ語の「ランコ・ウシ」(桂の木が多いところ)から転化したとされる。
1999年 尻別村戸長役場から南尻別村戸長役場として、分離・独立する。
1909年 2級町村制を施行する。(村名を南尻別村とする。)
1940年 1級町村制を施行する。
1954年 町制施行を行い、町名を蘭越町とする。
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ニセコ町:4,668人(2.5%) |
ニセコ町は後志管内のほぼ中央に位置し、東に国立公園羊蹄山(1,898m)、北に国定公園ニセコアンヌプリ(1,309m)の山岳に囲まれ、波状傾斜の多い丘陵盆地を形成しています。町の中央には尻別川(2004年清流日本一)が流れ、これに昆布川、ニセコアンベツ川、真狩川などの中小河川が流入しています。
平均気温は摂氏6.3度、冬期の最深積雪は200cmにも達することがあります。ニセコ(ニセコアン)とはアイヌ語で「切り立った崖(の下を流れる川)」という意味。スキー場で有名なニセコアンヌプリという山は、「切り立った崖(とその下に川)がある山」という意味になります。
昭和39(1964)年までは狩太(かりぶと)町という名前で、明治34(1901)年、隣の真狩村からの分村し誕生しました。分村する際、新村となる地域で最も栄えていた地区である 真狩太(まっかりぶと)という名前の一部を利用して、村名が狩太村に。昭和38年、ニセコアンヌプリ一帯が「ニセコ・積丹・小樽海岸国定公園」 に指定されます。その後、狩太町とその周辺を含むニセコアンヌプリ一帯は、古くから全国に広く”ニセコ”として知られていたことから、住民による町名改正への働きかけもあり1964年にニセコ町と改称されます。
1895年 入植開始。
1897年 真狩村(現在の留寿都村)が虻田村(現在の虻田町)から分村する。
1901年 真狩村より分離独立し、真狩村字真狩別太の狩太をとり狩太村と名付けられ戸長役場を設置する。
1906年 二級町村制施行。
1910年 倶知安村(現在の倶知安町)のニセコアン(ニセコ、曽我)一帯を併合する。
1925年 弁辺村(現豊浦町)の中昆布、柳の沢、桂の沢一帯を合併する。
1950年 町制施行。
1964年 狩太町からニセコ町に改称。
1972年 ニセコアンヌプリスキー場開設。
1982年 東山スキー場開設。
2001年 ニセコ町開基100年記念式典が行われる。
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真狩村(まっかりむら):2,354人(△7.2%) |
「えぞ富士」と呼ばれ親しまれている羊蹄山の南麓に位置し、農業を基幹産業として発展してきた準農村です。主要な作物は、じゃがいも、大根、人参などで、中でも食用ユリ根、花ユリ球根は、全国一の出荷量を誇っています。
また、演歌歌手の細川たかしさんの出身地としても知られ、村を流れる真狩川河川公園には、熱唱する「細川たかし記念像」が置かれ、観光スポットになっています。「真狩」とはアイヌ語で「羊蹄山(マクカリヌプリ)を取り巻く川」を意味する「マクカリペッ」より転訛したもの。
1895年 香川・福島県人5戸18名がマッカリベツ原野に入植。(真狩村開基)
1897年 真狩村戸長役場が虻田村(現在の虻田町)から分立設置。真狩村(現在の留寿都村・真狩村・喜茂別町管内)・狩太村(現ニセコ町)設置。
1899年 真狩別駅逓所創設。
1901年 狩太村戸長役場(現ニセコ町)が分立。
1906年 二級町村制施行「真狩村」。
1910年 室蘭支庁(現胆振支庁)から後志支庁に管轄変更。
1922年 真狩村のうち字真狩別・知来別・御保内地区が真狩別村(現真狩村)として分立。
1922年 真狩村、留寿都村に改称。
1941年 真狩別村、真狩村に改称。
1952年 狩太町との境界変更実施、一部編入。
1977年 有珠山噴火、農作物に被害。
1991年 香川県大野原町と姉妹提携。
1994年 真狩村開基100年。
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留寿都村(るすつむら):2,165人(△2.8%) |
秀峰羊蹄山をはじめとする美しい山並みに囲まれた高原の村。四季折々の彩り豊かな自然と名水と清々しい空気に加えて、留寿都銘柄として高く評価されている開拓百有余年の歴史が育んだ食味・品質の優れた食用馬鈴薯、アスパラガス、スイート・コーン、大根等の園芸畑作物を生産する豊かな農村です。由来はアイヌ語の「ル・スツ」(道が山のふもとにあるという意味)から名付けられたもの。
雪質の良さで知られている本道有数の規模を誇るスキー場とゴルフ場、レジャーランドが立地する国際的なリゾートでもあります。大都市札幌の都心部や千歳空港まで、車で1時間半の近距離にあります。
この利点を生かして、今度、一層、観光と結び付いた高品質の食材供給を主体とした特産農畜産物の生産振興をはかるとともに、国道沿いに広がる市街地の環境美化整備につとめるほか、観光物産センター、郷土資料館、体験学習農園、ハーブ・ガーデン等を組み合せた「道の駅・ルスツ・カントリー・パーク」の開設、眺望の優れた温泉保養施設の整備など、都市と農村との交流の拠点施設を拡充しながら、美しい村づくりを目指しています。
1901年 狩太村(現ニセコ町)を分村する。
1906年 2級町村制を施行し、全村9部制とする。
1910年 後志支庁の管轄となる。全村を56部制にする。
1917年 喜茂別村(現喜茂別町)を分村する。
1922年 真狩別村(現真狩村)を分村する。
1925年 2月1日 村名を真狩村から留寿都村に改称する。
1997年 7月1日 開村100年記念式典を挙行する。
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喜茂別町(きもべつちょう):2,708人(△4.7%) |
町名は、アイヌ語の「キム・オ・ペツ(山の多い川)」から転化したもの。
1917年 4月1日 真狩村(現留寿都村)から分離独立し、2級町村制を施行、村名が喜茂別村に。1946年 1級村に昇格。1920年 6月 徳舜瞥村(現大滝村)の一部を編入。1952年
7月 町制施行し、喜茂別町となりました。 1997年 3月 開町80周年記念式典を挙行。 虻田郡の倶知安町、ニセコ町とは羊蹄山の頂上の一点で接しています。
アスパラの栽培が北海道ではじめて行われた地として、知られており、中山峠にその記念碑があります。
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京極町(きょうごくちょう):3,583人(+2.2%) |
羊蹄山(えぞ富士)の麓にある町。羊蹄山の湧き水が出るふきだし公園は、同町の観光名所です。
京極町は、明治43年4月5日、胆振国虻田郡倶知安村から分離し、北海道2級村東倶知安村として誕生しました。その後、大正12年に1級村政に昇格し、昭和13年、村の開基者京極高徳子爵所有の京極農場が開放されたのを記念して、昭和15年京極村と改称されました。昭和37年5月1日には、町制を施き現在に至ります。
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倶知安町(くっちゃんちょう):16,174人(△0.1%) |
後志支庁の所在地で、後志支庁南西部の中心都市の役割を果たしています。倶知安は「クッチャン」にあてた漢字。クッチャンはアイヌ語の「クッシャニ」から名付けられたと言われています。
クッシャニは尻別川支流、倶登山(くとさん)川の旧名。もともとは「クッ・シャン・イ」で「くだの(ようなところ)を・流れ出る・ところ」の意。このクッ・シャン・イがクッシャニとなり、さらにクドサニと変わって倶登山川となりました。一方、同じクッシャニがクッチャン(倶知安)となって地名となる。明治26年公示。漢字をあてたのは当時の北海道庁参事官白仁武です。
1892年 5月19日、第一次移住者、真鍋浜三郎ほか5人倶知安原野入墾。5月21日、第二次移住者、山田ほか15名が入地、この年47戸が入地。
1893年 倶知安村を設置し虻田戸長役場の管轄とする(はじめて倶知安という漢字が使われる)。
1896年 倶知安村戸長役場が開庁する。
1906年 二級町村制施行。1
1910年 2月8日、寿都・岩内・小樽の各支庁を統合し、管轄に虻田郡(虻田村、弁辺村を除いた)各村を加えて、倶知安村に後志支庁を設置。4月5日、東倶知安村(現在の京極町)を分村し、ニセコアン・曽我・藤山地区を狩太村(現在のニセコ町)の行政区域とする。
1916年 町制施行。
1991年 開基100年記念式典が行われる。
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共和町(きょうわちょう):7,112人(△1.9%) |
温暖な気候と肥よくな大地に恵まれた共和町は、古くから道央の米どころ。町の中央を東西に流れ、日本海に注ぐ堀株川の丘陵台地に農耕地が広がり、道外でも人気の高い「きらら397」、「ほしのゆめ」などが生産されています。澄んだ空気と水、広大な土地という優れた自然環境から、電子部品を製造している企業も操業しています。
1880年(明治13)堀株他2ヶ村、戸長役場が置かれ発足、村となる。
1897年(明治30)前田村(幌似村、小沢村含む)に戸長役場を置く。
1900年(明治33)老古美村、梨野舞納村が前田村戸長役場管轄となる。
1901年(明治34)小沢村(幌似村含む)に戸長役場を置く。
1909年(明治42)小沢村2級村となる。
1923年(大正12)前田村、発足村1級村となる。
1955年(昭和30)小沢村、前田村、発足村が合併して共和村となる。
1971年(昭和46)町制を施行。
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岩内町(いわないちょう):15,742人(△5.9%) |
南西部の海岸は断崖・奇岩が連なり、雷電温泉の付近はニセコ積丹小樽海岸国定公園に指定されている。かつてニシンの千石場所として栄え、港町ならではの多様な文化が育まれた。今も生産量日本一のミガキニシンや高級料亭でも使われる鮮度の良い前浜釣りたらこが主要特産品。最近は地場産業サポートセンターによる海洋深層水の開発、販売に力を入れている。
1456年 岩内地方に和人が往来する。
1751年 近江商人の恵比須屋(岡田)弥三右衛門が岩内・古宇の両場所を請け負う。(これが岩内町の開基である。)
1869年7月26日 蝦夷地が北海道となり、岩内の名称が確定する。開拓使出張所が設置される。
1869年9月 場所請負制が廃止される。
1872年 岩内郡内に戸長と副戸長が置かれる。
1897年 岩内支庁が設置される。
1900年 岩内町に1級町村制を施行する。
1954年 全家屋の80%を焼失する大火災に見舞われる(岩内大火)。
1955年 岩内町と島野村が合併し、新「岩内町」が誕生する。
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泊村(とまりむら):2,185人(+7.1%) |
泊村は北海道の積丹半島の南西に位置し、慶長6年(1601年)に村として産声をあげてから400年の歴史をもっています。古くはニシンの千石場所、そして北海道最古の茅沼炭鉱(1856年発見。1964年閉山)で栄え、紺碧に輝く日本海と緑茂る山々に囲まれた漁業と観光の村です。
特に、ニセコ・積丹・小樽海岸国定公園に指定されている奇岩の並ぶ海岸沿いのダイナミックな風景は、泊村を代表する景観で、この自然が織り成す四季折々の移り変わりは、訪れる多くの人々を魅了します。
現在、北海道唯一の原子力発電所(北海道電力泊発電所)を有し、北海道の電力消費量の約3割を供給しています。発電所の固定資産税や国の電源開発交付金により、同村は北海道内の市町村で唯一、地方交付税をもらっていない不交付団体です。
1909年 泊村・盃村・興志内村・茅沼村・堀株村が合併して、二級町村泊村となる。
1923年 一級町村制施行。一部を発足村(現・共和町)に分割。
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神恵内村(かもえないむら):1,319人(△0.5%) |
北海道古宇郡にある村。漁業を中心に明治から発展してきた村です。国道229号が海岸に沿って走り、沿岸には美しい景観が望めます。道道古平神恵内線は、当丸峠を経由して積丹半島を短絡する路線です。1906年(明治39年)、神恵内村と赤石村と珊内村が合併してできた村です。
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積丹町(しゃこたんちょう):2,860人(△9.2%) |
北海道西海岸の中央部、北西に突出している積丹半島の頭部に位置しています。積丹半島開拓の歴史は古く、明治から昭和初期にかけてニシン漁の大漁場として発達し、当時の番屋、トンネル、旧街道などが保存されています。産業の中心である漁業の中でも特にウニは積丹町の名物であり、6月のウニ漁、秋のサケ漁、冬季のタラ漁と四季を通して水揚げがあります。また、積丹町の海岸はおよそ42kmあり、切り立った断崖や奇岩、シャコタンブルーといわれる「神威岬」の景観は絶景です。
積丹半島はニセコ積丹小樽国定公園に含まれており、積丹の海は北海道で唯一、海中公園に指定されています。平成16年には「積丹半島と神威岬」が北海道遺産52件の内の1件に認定され、次の世代に引き継ぎたい北海道の大切な宝物であると認められました。
積丹半島の海岸線を沿って走る国道229号線は、小樽から江差を結ぶ「追分ソーランライン」と呼ばれる幹線道路です。かつては北海道の経済的中心であった小樽を起点に、難所で名高い積丹半島を経て江差へと至るその道には、ニシン漁で賑わった当時の面影が残っています。なかでも、積丹半島の歴史には数多くの伝説や逸話が伝えられており、北海道を代表する民謡「ソーラン節」は、ニシン漁で賑わった積丹町が発祥の地と言われています。
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古平町(ふるびらちょう):4,021人(△6.9%) |
北海道西部、積丹半島の北東側に位置する町。後志支庁に属し、一町で古平郡を成しています。町名はアイヌ語の「フィーピラ」(赤い崖という意味)に由来。江戸時代初期より古平場所が設置され、ニシン漁で栄えた地です。明治に入って開拓使出張所が置かれるなど東積丹地域の中心地として発展を続けましたが、ニシンの漁獲が激減した昭和30年頃を境に町人口は減少へと転じています。
1869年9月4日 浜町に開拓使古平出張所が設けられる。
1902年4月1日 古平郡に属する町村を全て併せ二級町村制施行、古平町に。
1907年4月1日一級町村制施行。
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仁木町(にきちょう):3,967人(△3.5%) |
北海道の西部、後志管内北部にあって、北は余市町に隣接、東は南走する頂白山系をもって赤井川村と、西南は八内岳から稲穂嶺、三角山に至る山嶺を隔てて古平町、共和町及び倶知安町とそれぞれ境を画し、小樽市までは24km、札幌市までは58kmと道中央圏に近接しています。
1879年(明治12)11月に、仁木竹吉(にきたけよし)ら360余名が高知県(現在の徳島県吉野川市)から集団で入植したのが定住の始まりで、翌年に仁木村が成立。仁木町の名は仁木竹吉にちなんでいます。山口県からの移民を中心に、1883年(明治16)3月に大江村が成立し、1920年の人口は、5476人。仁木では早くからリンゴの栽培が盛んで、現在も町内には果樹園が広がっています。一方、大江では米作りが盛んで、稲と林檎が町の産業の二つの柱でした。最近ではさくらんぼ、ぶどうも加えた果樹の比重が高まっています。
1880年(明治13) 仁木村が成立。
1883年(明治16) 大江村が成立。
1899年(明治32) 大江村から赤井川村が分立。
1902年(明治35) 仁木村、大江村、山道村が合併して二級町村制の大江村。
1915年(明治15) 大江村が一級町村制を施行。
1964年(昭和39) 大江村が改称して町になり、仁木町に。
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余市町(よいちちょう):22,730人(△4.0%) |
余市町は、千歳空港から高速道路を利用して約2時間。隣の小樽市までは車で約30分、札幌市までは約1時間、また積丹半島と倶知安方面への国道の分岐点に当たる交通の要に位置しています。
余市町は、ニシン漁により発展し町の基礎を築いてきましたが、ニシンは昭和29年の漁を最後に余市湾への回遊が途絶え、今では「幻の魚」となってしまいました。現在は、ニシンに代わって、えび、いか、かれい漁などが盛んに行われ、また北限の鮎の生息地でもあります。
一方、果樹の栽培が明治初期から試みられた結果、リンゴ、ブドウ、梨などの生産では全道一を誇っています。また、身欠きニシンや燻製など各種の水産加工製品の生産のほか、ワインやウィスキーの醸造業も盛ん。1934年にニッカウヰスキーの前身である大日本果汁株式会社が創業した地で、今もニッカウヰスキーの工場があります。
余市町は温暖な気候で知られ、古くから人が定住し、多くの人々の往来が盛んな地域であったため、各種の遺跡や文化財に恵まれた歴史の宝庫です。岩面刻画で有名なフゴッペ洞窟、旧下ヨイチ運上家、旧余市福原漁場、大谷地貝塚(未公開)の4件が国指定の史跡や重要文化財に指定されている他、ニシン漁の歴史を物語る水産博物館や縄文時代の墓であると言われている西崎山環状列石(ストーンサークル)などがあります。
江戸時代初期にアイヌ人と和人の交易拠点としてヨイチ場所、下ヨイチ場所が置かれ、後には近海を回遊するニシンの漁場として発展しました。近海ニシン漁は、ニシンが少なくなり、1954年(昭和29年)を最後に途絶えたためなくなります。1871年(明治4年)から農業開拓が始まり、リンゴなどの果樹が栽培されます。1920年の人口は16,809人。
1869年(明治2)、開拓使余市詰役員が派遣される(浜中出張所)。余市町の開基。 1900年(明治33)7月1日、11町村が合併して余市町となり、一級町村制を実施。
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赤井川村(あかいがわむら):1,311人(△13.3%) |
赤井川村は北海道の南西部に位置し、周囲を札幌市、小樽市、余市町、仁木町、倶知安町、京極町に囲まれた緑豊かな「カルデラの里」です。村の総面積は280.11平方kmと広大ですが、その8割が山林で占められています。気象条件は盆地特有の内陸型気候で、冬の積雪は多く、北海道内で有数の豪雪地帯です。市街地でも最大170pにもなります。
赤井川村はアイヌ語「フレ・ペツ」(赤い川)を意味したものです。明治32年、大江村(現在の仁木町)から分村し、赤井川戸長役場を設置、同39年4月2級町村制施行により赤井川村と称し、現在に至っています。
赤井川村の主産業は、農業と観光業です。農産物の品目は多岐にわたり、北海道で栽培できる農産物は何でも出来るといわれています。作付面積が多い品目は、米、馬鈴薯、南瓜、スィートコーンなどです。近年は施設(ハウス)栽培の増加に伴い、野菜の占める割合が増加しています。また、ここ数年で花き栽培もはじまり、栽培面積は年々増えています。平成3年にはスキー場を中心としたキロロリゾートがオープンし、観光・サービス業の就業者も増加しています。
1899年(明治32)、大江村(今の仁木町)から赤井川村が分立。
1906年(明治39)、二級町村制を施行。
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