釧路市(くしろし):190,477人(△5.5%) |
平成17年10月11日、阿寒町、音別町と新設合併し、新たに「釧路市」として発足しました。釧路支庁の所在地で、釧路・根室地方、また北海道東部の政治、経済の中心地です。北海道東部では最大の人口規模を誇り、道内では札幌市、旭川市、函館市に次ぎ4番目。面積は北見市、足寄郡足寄町に次いで3番目の広さです。当初は白糠町も含めて合併協議を行なっていましたが、住民投票の結果を受けて離脱し、音別地区は飛地になっています。
夏季は南北からの暖気と冷気がぶつかり霧が発生しやすく、25度以上の夏日はまれ。日本で年間平均気温が一番低いまちとも言われている。一方、冬季は比較的温暖で、積雪量も少なく穏やか。
苫小牧市、室蘭市、石狩市と並び北海道で3番目の規模の国際貨物取扱量を誇る大規模な港湾を有し、後背地には広大な工業団地を抱え、食品製造、製紙・パルプ工業、機械製造、飼料・肥料コンビナートを有する商工業都市。帯広市、北見市など内陸諸都市の9割の港湾取扱貨物を扱い外港としての役割を果たしています。北海道面積の43%の地域の生活物資が釧路港に依存しており、道内の紙・パルプ移出量(3939千t)の52%、飼料・肥料の輸入量(348万t)の45%を釧路港が占め、いずれも北海道最大規模です。釧路港は大韓民国釜山との間に国際定期コンテナ航路が開かれ、東北海道最大の国際物流拠点となっています。
漁業(スケソウダラ、マダラ、サンマ、イカ)は北海道最大の規模で全国の13%を占めています。1990年まで全国1位の水揚げを誇っていました。(13年連続国内、世界1位)
また、釧路湿原国立公園、阿寒国立公園、知床国立公園の入口として、毎年1000万人の観光客が訪れ観光業も盛ん。かつては石狩炭田と並ぶ釧路炭田を有することから炭鉱(太平洋炭礦)が開かれていたが閉山、現在は釧路コールマインにより「釧路炭鉱」として、規模を縮小しつつ国内最後の坑内掘り炭鉱として採掘を再開しています。
市名の由来はアイヌ語による以下の諸説があるが、どれかは定かではありません。「クツチヤロ」(のど)、「クシベツ」「クシナイ」(通り抜けることのできる川)、「クシユル」(通路)、「クスリ」(不明)。
1600年代(寛永年間) 松前藩によりクスリ場所が置かれる。
1869年(明治2) 「クスリ」から「釧路」に改称。
1880年(明治13) 戸長役場が置かれる。
1891年(明治24) 鳥取神社が創祀される。
1900年(明治33) 一級町村制が施行され、釧路町となる。(現釧路町とは異なる)
1919年(大正8) 釧路唯一の地酒「福司」を製造・販売する合名会社敷島商会が創業。(1991年7月1日、福司酒造に改称)
1920年(大正9) 区制施行。釧路村(現釧路町)を分村。これが現釧路町との合併論議時に障害となる。
1922年(大正11) 市制施行、釧路市になる。
2005年(平成17) 阿寒町・音別町との合併による新「釧路市」発足。
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釧路町(くしろちょう):21,845人(△6.4%) |
釧路市東部に隣接し、南部は太平洋に面しています。町役場は別保地区にあり、釧路市から東に10kmほどの距離です。釧路町は長靴アイスホッケー発祥の地として知られています。
大正9年旧釧路町(現釧路市)から分村、その後、昭和30年に昆布森村と合併し、新「釧路村」となり昭和55年の町制施行により釧路町となりました。セチリ太地区は釧路市北東部に隣接した地域で、ポスフールをはじめとして多くの郊外型商業施設が立ち並び、釧路市を含めた商業の中心地となっています。
遠矢地区は釧路湿原国立公園の東部に位置し、南北に国道391号線、釧網本線が走っています。昆布森地区は太平洋沿岸部地域。地勢は険しく、海と山に囲まれ、そこにいくつかの漁村が点在します。この地域は難読地名が多いことで有名。老者舞(おしゃまっぷ)、来止臥(きとうし)、去来牛(さるきうし)、賤向夫(せきねっぷ)…のような地名があります。
1920年 旧釧路町(現釧路市)から分村して、釧路郡釧路村となる。
1955年 昆布森村と合併、新生釧路村となる。
1980年 町制施行、釧路町となる。
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厚岸町(あっけしちょう):11,525人(△6.4%) |
厚岸町は東に厚岸郡浜中町、北に川上郡標茶町、西に釧路郡釧路町が接し、南は厚岸湾が深く入り込み、厚岸湖とつながり太平洋に面する景勝の地です。東西35.5km、南北45.1km、総面積は734.81kuの広さです。町面積の57%は森林で、夏季は濃霧におおわれることが多くなっています。
厚岸湖および厚岸湾の海岸線は72kmにおよび、昆布漁を主とする漁村が点在しています。また、北部の波状丘陵地帯には広大な酪農地帯がそれぞれ形成されています。
町名の由来は、アイヌ語の「アッケケシ」(牡蠣の多いところ)から。「アッケシュトー」(小沼)からという説もあります。沖合に浮かぶ大黒島は周辺がタラ・コンブ漁の漁場であったことからかつて季節定住者が番屋を建て暮らしていました。その後、第二次世界大戦中に軍の監視基地が置かれたことから住民が立ち退き、現在は実質無人島になっています。島は特別天然記念物のコシジロウミツバメやゼニガタアザラシの繁殖地となっています。
1624年−1643年(寛永年間) 松前藩によりアッケシ場所が開設される。
1890年(明治23) 太田屯田兵村が創設される。
1900年(明治33) 4町7村が合併し厚岸町に。一級町村制施行。
1955年(昭和30) 太田村の南半分を編入合併。
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浜中町(はまなかちょう):7,007人(△4.5%) |
海から開かれた浜中町は、釧路地方の最東端に位置し、厚岸町・別海町・根室市に接して、東南は太平洋に面しています。
また霧多布半島を形成し、厚岸道立自然公園の一角をなしています。陸部は中央を東西に走る鉄道、南部は森林、牧草地帯、北部一帯は農村地帯で平坦な丘陵原野を有する酪農王国です。町名の由来は、アイヌ語「オタノシケ」(砂浜の真ん中)を意訳したもの。
霧多布湿原は3,168haの広さをもち、国内3番目に大きな湿原で、春・夏にかけて咲き誇る草花は数百種を数えます。道立自然公園として親しまれ、中央部803haは「霧多布湿原泥炭形成植物郡落」として大正11年に国の天然記念物に指定されています。
このことから国際的・学術的にも注目を集め、平成5年6月にラムサール条約登録湿地に認定され、あわせて先導的な地域づくりに自治省が支援するリーディングプロジェクト「自然とふれあいの里づくり事業」で霧多布湿原センターを建設、自然と調和した地域活性化を促す中核施設の役割も担っています。
根室・釧路方面は、かつて松前藩の直領であり、寛永年間には厚岸場所が、そして元禄14年にキイタップ、後の霧多布場所が開かれました。霧多布は厚岸と根室・標津・国後方面とを結ぶ重要な交通路であり、交易の拠点でした。釧路国は佐賀藩が支配していましたが、漁場持である榊富右衛門が漁民を召募し、アシリコタンに定住させたのが今日の榊町の発祥となりました。
やがて佐賀藩の支配はとかれ、町には戸長役場やさまざまな施設が設けられ、浜中一帯の海浜に産業干場が広がり、ニシンとコンブの生産が盛んとなりましたが、榊町海岸は港には適さなかったため、霧多布が一躍浜中の中心街として発展を遂げました。
1701年(元禄14) 厚岸場所を分割、キイタップ場所(後の霧多布場所)が開設される。
1872年(明治5) 榊町に浜中出張所開設。
1906年(明治39) 二級町村制が施行され、浜中村となる。
1919年(大正8) 一級町村制施行
1963年(昭和38) 町制施行、浜中町となる。
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標茶町(しべちゃちょう):8,936人(△4.8%) |
地勢は丘陵部と平野部に大別され、丘陵部は標高60mから300m、平野部は釧路川、別寒辺牛川、西別川の河川流域に広がり、また、塘路湖、シラルトロ沼などの湖沼一帯には湿地帯が分布しています。地質は丘陵部には摩周系火山灰性砂壌土、河川流域は一部沖積土壌が見られます。
町名は、アイヌ語の「シペッチャ」(大きな川のほとり)に由来しています。主要産業は酪農。近年は南部の塘路湖を中心とした観光開発が進み、 釧網本線のトロッコ列車「くしろ湿原ノロッコ号」が釧路−塘路間を運行しています。また、冬季はSL「冬の湿原号」が釧路−標茶間を運行します。塘路湖ではカヌー体験などが楽しめます。
原始の大自然が広がる悠久の大地、釧路湿原は、わが国の全湿原面積の約60%を占める日本一の大湿原です。昭和62年に26,861haの湿原が国立公園として指定され、標茶町にはその44.6%にあたる11,993haの湿原が広がっています。国の天然記念物タンチョウをはじめ貴重な動植物が数多く生息する野生生物の楽園で、平成5年6月には、「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約」であるラムサール条約の締約国会議が、釧路湿原を舞台に開催されました。これを機会にして、湿地の保全とワイズユースが図られ、今、釧路湿原の重要性はますます高まっています。
標茶町の開基は、明治18年釧路集治監(網走刑務所の前身)が開設され、塘路に四村戸長役場が置かれたのにはじまります。明治36年には弟子屈、屈斜路が分村、大正12年熊牛村となり、昭和4年には標茶村と改称し昭和25年に町へ昇格。昭和60年には開基100年を迎えました。町内にある北海道標茶高等学校は日本一広い高校で、その面積は約255万uにもおよび、甲子園球場220個分にもなります。
1885年(明治18) 釧路集治監開設、塘路に熊牛村外四ヶ村戸長役場が設置される。
1903年(明治36) 弟子屈・屈斜路の両村が弟子屈外一村戸長役場(現在の弟子屈町)として分離。
1923年(大正12) 熊牛村となる。
1929年(昭和4) 「熊牛」という名前が山奥を連想させるため熊牛村から標茶村に改称。
1950年(昭和25) 町制施行、標茶町。
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弟子屈町(てしかがちょう):9,023人(△5.0%) |
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透明度において世界有数の摩周湖。その山麓に広がる弟子屈町は、千島火山帯に属する高原地帯で、カルデラ湖として有名な屈斜路湖を源とする釧路川が地域の中央を縦貫し、地勢は山がちです。
地域の約70%は山林地帯で、農耕地は屈斜路湖沿岸と釧路川を始め各河川の流域に散在しています。酪農を中心として、草地、放牧地及び馬鈴薯、甜菜、小麦畑などに主に利用されています。摩周湖、屈斜路湖、川湯温泉が主要観光地で全国から多くの観光客が訪れます。また本州からの移住者も多い地域です。
弟子屈の「テシカ」とはアイヌ語で「岩磐」、「ガ」は「上」を意味します。
魚を獲ろうと網をかけようとしたが磐が多く、杭を打ちこむことが出来なかった、という話が伝えられています。
年間平均気温は4.8度と冷涼な気候で、初雪は11月上旬、降雪量は50〜100mmと比較的少ないのが特徴です。川湯・屈斜路は、北見・網走地方の気象に類似しています。
1903年(明治36) 熊牛村(現在の標茶町)から分村し、弟子屈外一村戸長役場を設置する。
1923年(大正12) 二級町村制を施行し、弟子屈村となる。
1943年(昭和18) 一級町村制施行。
1947年(昭和22) 町制施行。
1956年(昭和31) 標茶町へ一部分割。
1957年(昭和32) 標茶町の一部編入。
▼弟子屈町の公式サイトはコチラ

▼弟子屈町提供の摩周湖情報サイトはコチラ

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鶴居村(つるいむら):2,672人(△2.1%) |
鶴居村は、北海道釧路支庁管内のほぼ中央に位置し、東は標茶町、北西は阿寒町・弟子屈町、南は釧路湿原国立公園を挟んで釧路市や釧路町に隣接しています。阿寒カルデラ外輪山を貫流する雪裡川、幌呂川、久著呂川の流域に沿って広がる雪裡、幌呂、久著呂の3原野で構成されています。
海抜標高は、最低が本村南部の湿原地帯で3.6m、最高が阿寒山麓の原始林帯で812mとなり、農耕適地は40〜200mの地帯に拓かれています。釧路市から村の中心地「鶴居市街」まで車で40分、釧路空港からも約40分のところにあります。特別天然記念物タンチョウの生息繁殖地に因み、村名を「鶴居村」と称しています。
気候は冷涼で、夏季は釧路沖で発生する海霧(ガス)に時折覆われることはあります。冬季は雪が少なく晴天の日が多いです。
明治18年に釧路市から27戸が下雪裡に集団で農耕移住し、農業を始めたのが開拓の創始です。明治20年に戸長役場が設けられ、昭和12年に現在の阿寒町より分村、鶴居村として2級町村制を施行しました。
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白糠町(しらぬかちょう):10,398人(△8.5%) |
釧路市都心部から西に約30km、東西を釧路市に挟まれています。帯広市からは東に約90kmの位置。南部の太平洋沿岸に沿って国道38号、根室本線が走っています。人口の多くも沿岸に集中しています。
林業、漁業(シシャモ・鮭など)、工業、酪農が盛んで、かつては雄別鉄道の上茶路炭礦、明治鉱業の庶路炭礦など複数の炭鉱が栄えていました。(現在閉鉱)
町東部には釧路白糠工業団地が置かれています。
平成4年12月9日から発売している、しそ焼酎「鍛高譚(たんたかたん)」はすでに全国区の特産品。
白糠町のシラヌカという地名は、アイヌ語のシラリ(磯)、カ(上)、シラルカ、シラリイカ、を語源としています。現在白糠漁港に注ぐシラリカップ川付近を中心に、岩磯地帯の海浜から集落が育ったといわれています。寛永20年(1643)、オランダ船カストリクム号の船長の日記に「シラルカ」と記録されているのが最古の記録です。
1632年頃(寛永) 白糠場所が開設される。
1884年(明治17) 白糠外六ヶ村戸長役場が開設される。
1915年(大正4) 白糠村と庶路村が合併し、白糠村となる。
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