石狩エリア【Ishikari】


 石狩エリアは、石狩湾の内陸に位置する6市1町1村の地域です。道都「札幌」、北海道の空の玄関口「新千歳空港」などが石狩エリアに含まれます。南部に支笏洞爺(しこつとうや)国立公園、北部に暑寒別天売焼尻(しょかんべつてうりやぎしり)国定公園、江別市に北海道立野幌(のっぽろ)森林公園があり、大自然とすぐに触れあえる、また都市の利便性も享受できるエリアです。

 札幌は今や人口180万人を擁する国際都市。明治時代以降、北海道開拓の拠点として、当時最先端の建築物が建てられました。明治21年に建造され「赤レンガ」の通称で知られる北海道庁旧本庁舎や、明治11年に札幌農学校演武場として建築され、現存する日本最古の時計塔である「時計台」。そして、明治13年に開拓使が洋風ホテルとして建築した「豊平館」(ほうへいかん)などが当時の雰囲気を伝えます。

 エリア内には温泉も多く、豊富な湯量でも知られる札幌の奥座敷「定山渓温泉」(じょうざんけいおんせん)や、日本最北の不凍湖「支笏湖」(しこつこ)周辺、石狩湾を望む石狩温泉など、個性的な温泉が点在します。

 毎年2月上旬に一週間にわたり開催される冬の祭典「さっぽろ雪まつり」は1950年から続く歴史あるイベントで、国内外から多くの観光客が訪れます。また1992年にスタートした「よさこいソーランまつり」は、いまや北海道の初夏の風物詩として定着。毎年6月に開催され、観客動員数は札幌の人口をはるかに上回る大イベントとなっています。



石狩エリアの市町村

札幌市/江別市/千歳市/恵庭市/石狩市/北広島市/当別町/新篠津村


石狩エリア位置図

凡例(箇所)
保育所
幼稚園
小学校
中学校
高等学校
病院
診療所
歯科診療所
公民館
図書館


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札幌市(さっぽろし):1,880,875人(+3.2%)
  
 1869(明治2)年の開拓使設置以来、北海道開拓の拠点として発展し続け、今や人口188万人(北海道の人口の約3割)を擁する全国5番目の都市です。
 札幌の名の語源については、アイヌ語の「サッ・ポロ」(乾いた広いところ)とする説と「サリ・ポロ・ペッ」(大きな湿地のあるところ)とする説などがあります。

 アイヌの人たちが住んでいた蝦夷地は、明治2年、北海道と改称されて、開拓使が置かれ、札幌本府の建設が始まりました。判官・島義勇(しま よしたけ)は、円山の丘からはるか東方を見渡し、街づくりの構想を練ったといわれています。

 明治8年、最初の屯田兵が入植。人々は遠大な札幌建設計画に基づいて、鉄道を敷き、産業を興して、道都・札幌を築きました。大正11年8月1日の市制施行以来、近隣町村との度重なる合併・編入によって市域を拡大し、昭和45年には人口が100万人を突破、2年後の昭和47年に政令指定都市へ移行しています。現在は中央区、北区、東区、白石(しろいし)区、厚別(あつべつ)区、豊平(とよひら)区、清田(きよた)区、南区、西区、手稲(ていね)区の10区から構成されています。

1869年(明治2) 開拓使設置。島判官札幌本府建設着手。
1875年(明治8) 琴似に最初の屯田兵が入植。
1876年(明治9) 札幌農学校(現在の北海道大学)開校。
1878年(明治11) 札幌農学校演武場(現在の時計台)完成。
1880年(明治13) 豊平館竣工。
1922年(大正11) 市制施行。
1927年(昭和2) 民営電車事業を買収し市電運行開始
1930年(昭和5) 市営バス運行開始
1941年(昭和16) 円山町と合併
1947年(昭和22) 地方自治法施行
1950年(昭和25) 白石村と合併、さっぽろ雪まつり(第1回)開催
1955年(昭和30) 琴似町・札幌村・篠路村と合併
1961年(昭和36) 豊平町と合併
1967年(昭和42) 手稲町と合併
1968年(昭和43) 札幌市創建100年記念式典
1970年(昭和45) 人口100万人突破
1972年(昭和47) 第11回オリンピック冬季大会開催
1984年(昭和59) 人口150万人突破
1989年(平成元) 白石区、西区の分区により9区体制へ移行
1997年(平成9) 豊平区の分区により10区体制へ移行
2002年(平成14) 2002FIFAワールドカップTM開催


札幌市カントリーサイン


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市電ラーメン
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江別市(えべつし):125,589人(+1.4%)

 本州から江別に最初に移り住んだのは明治4年。宮城県桶谷領からやってきた21戸76人の農民でした。明治11年には、屯田兵10戸56人が移住。同年、明治政府による開拓使府令が布達され江別村が誕生、その後、各地から屯田兵が入地し、計画的な開拓がすすめられました。大正5年には江別町に昇格。昭和29年に市制が施行され、江別市が誕生。30年代後期から40年代にかけて札幌市への人口集中の影響を受け人口が急増しました。また、文京台地区の大学、その他教育施設の立地、江別市第一工業団地の整備などにより道央圏の中核都市としての地位を築きました。

 江別市は石狩平野の中央部に位置し、全般的に平坦な地勢で豊かな自然環境に恵まれ、札幌市、北広島市、岩見沢市、当別町、南幌町、新篠津村と隣接しています。

 過去10年間の江別市の平均気温は6.8℃。最高が昭和51年で34.5℃、最低が昭和52年でマイナス27.7℃が記録されていますが、平均気温からみると北海道でも温暖な地域に属し、冬はやや寒く、夏はやや暑い準大陸性気候です。
 地勢の関係から日本海から太平洋に向け、四季を通じて風が強く、特に4月〜5月頃には南南東の強風が特徴的です。降雨量は、過去10年間の平均が、1,116mmで、7月〜8月に集中しやすい傾向があります。また、積雪は山間部に較べると少なく11月下旬から翌年4月初旬までが降雪期です。

  
江別市カントリーサイン

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千歳市(ちとせし):91,439人(+2.9%)  

 札幌低地帯と勇払原野の間に位置する千歳は古来から太平洋岸と日本海岸をつなぐ交通の要路で、江戸時代には千歳越え(勇払越え)として知られています。

 千歳川やその支流であるユカンボシ川、祝梅川などの流域には人々の生活の痕跡がみられ、北海道最古の遺跡の一つ旧石器時代の祝梅三角山遺跡やキウス周堤墓群、美沢川流域の遺跡群など北海道の先史時代を語る上で欠くことのできない重要な遺跡が多く存在します。美々4遺跡の縄文晩期の動物形土製品、ママチ遺跡の縄文晩期の土製仮面は国の重要文化財に指定されています。

 千歳地方一帯を指す「シコツ」という名称が文献に最初に現れるのは万治3(1660) 年の『福山秘府』といわれます。その後シャクシャイン蜂起、将軍や大名が珍重した鷹の捕獲地として「志古津」(シコツ)が記録に登場します。鮭を中心とする諸物産のアイヌとの交易場所としての十六場所が知られます。

 江戸時代にはシコツ場所、のちにユウフツ場所に編入され、千歳市街には千歳川会所が置かれていました。文化2(1805)年、響きの悪い「シコツ川」を当時多数生息していた鶴にちなみ箱舘奉行羽太正養が「千とせ河」と改名しました。
 明治2(1869)年、国郡設置となり、胆振国千歳郡に属し、同年土佐高知藩の支配地を経て、同5年開拓使の直轄になります。同13年に苫小牧村の勇払外5郡郡役所の管轄下となりました。千歳越えで知られた内陸交通路は同6年に開通した札幌本道の一部となり、千歳は街道の宿場町として栄えます。
 同17年には山口県から農民団体が入植します。同20年頃千歳川下流域が千歳原野として120万坪、漁川と長都沼の間が長都原野として200万坪がそれぞれ殖民地選定され、同27年に単独移民188団体、団結移民2団体が入植しました。同29年ケネフチ川流域の189万坪が殖民地に選定され、開拓が進展されていきました。同21年、アメリカの視察を終え鮭の産卵事業の適地を探していた北海道庁の伊藤一隆は、現在孵化場のある場所に湧水を発見し孵化事業を開始します。インディアン水車はアメリカ視察により導入されました。

 昭和26年、千歳飛行場での民間航空が再開となり、これにより千歳市は北海道の空の玄関口の地位を確立します。 同63年には新たに新千歳空港が開港し、年間乗降客1800万人を超える国内有数の空港になっています。同33年に市制が施行。同39年に新産業都市に指定され、サントリー、キリンビールが北海道工場を操業させています。 近年、最先端分野の一つ光科学技術を専門とする千歳科学技術大学や市民病院の新設、 千歳駅周辺整備事業など都市基盤整備が進み道央の中核都市として発展を続けています。



千歳市カントリーサイン

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恵庭市(えにわし):67,611人(+3.6%) 

 恵庭市は、札幌市と新千歳空港のほぼ中間に位置し、支笏洞爺国立公園を後背地とした恵庭渓谷は、「白扇の滝」や「ラルマナイの滝」などが観られます。「えにわ」の由来は、アイヌ語の「エエンイワ」 (現在の恵庭岳を指し、鋭くとがった山という意)から転訛されてきたと言われています。

 恵庭の開拓は、明治3年高知藩の移住により鍬が入れられたのが最初であり、本格的な開拓が始まったのは明治19年、山口県岩国・和木地方からの集団移住65戸が漁川沿いに入植し、その後順調に発展しました。明治30年千歳郡六ケ村戸長役場から独立し、漁村外一村戸長役場が開設 (戸数143戸、人口572人)。その後、明治39年漁・島松両村を合わせ「恵庭村」と称し二級町村制が施行されました。 昭和26年「恵庭町」として町制施行、昭和45年に地方自治法の特例で伊達・登別とともに、34,500人で「恵庭市」として市制施行。平成9年に開基100年記念式典が催されています。



恵庭市カントリーサイン

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石狩市(いしかりし):60,101人(+0.6%) 

 札幌市の北側に隣接し、石狩湾に臨む水に恵まれた環境にあります。江戸時代初期には河口部流域が「場所」に指定されたことや交通の要所であったことから、西蝦夷地の中心地として重要な役割を果たしてきました。近年は、石狩湾新港をベースにした国際的な文化・経済の拠点として発展を遂げています。総面積は721.86平方キロ。東西に28.88キロ、南北67.044キロに広がっています。西側一帯は石狩湾に接しています。

 市名の「石狩」は、市のほぼ中央を流れる石狩川からできた名前で、アイヌ民族の言葉で石狩川を指す「イシカラペツ」に由来しています。その意味は「曲がりくねって流れる川」また「神様がつくった美しい川」と言われています。
 江戸時代になると松前藩は、アイヌと交易する区域をいくつかの「場所」とよぶ区域にわけ、この「場所」での交易を、一定の運上金と引き換えに場所請負人とよばれる商人にまかせるようになります。場所請負人の代表格が石狩場所の村山家です。石狩だけでなくルルモッペ(留萌)、宗谷、クナシリ場所なども請け負い、持ち船は数十隻、一年間の儲けは6万両といわれ、日本屈指の豪商として知られました。最盛期には松前藩の参勤交代の費用まで出したといわれています。

 弁天歴史通にのこる石狩弁天社は、元禄7年(1694)に創建され、文化13年(1816)に村山家が再建したもので、石狩場所の役人、松前や江戸の問屋が奉納した鳥居や鰐口、手水鉢などが残されており、村山家の繁栄とイシカリをめぐる交易のひろがりを伝えています。

 明治時代は、鮭漁の最盛期で、年間百万尾を越える水揚も珍しくありませんでした。そのため、サケの漁期には2,000人以上の出稼ぎ人が入り込み、遊郭や料理屋などの飲食店が十数軒も軒を連ね大いに賑わいました。この頃、愛知県や石川県、高知県などから移住者が入り、花畔(ばんなぐろ)村、生振(おやふる)村、樽川(たるかわ)村の三つの村ができ、近代的な開拓が始まります。昭和3年(1928)、花畔地区の農民たちによって本格的な水田耕作に成功し、市内の水田は飛躍的に増加。
 昭和30年代には、札幌市の人口の急増から大規模団地として注目されるようになります。
 また、昭和48年(1973)から着工された石狩湾新港は、国際貿易拠点港として期待されています。平成8年(1996)9月1日に、石狩町は「石狩市」となり市政が施行され、着々と発展をとげています。平成16年(2005)10月に厚田村・浜益村を編入合併しました。



石狩市カントリーサイン

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北広島市(きたひろしまし):60,667人(+5.1%) 

 北広島市は、札幌市と新千歳空港の間に広がるなだらかな丘陵地帯にあり、豊かに息づく緑の環境、ゆとりの土地空間、整備された交通網など自然と都市機能が調和した街です。

 明治17(1884)年に広島県人25戸103人が集団移住し、開拓の鍬がおろされてからおよそ120年。道央圏のなかで宅地開発や工業団地の造成、都市施設の整備が進められ、平成8(1996)年9月に市制が施行されました。クラーク博士が『ボーイズ・ビー・アンビシャス』の名言を残したゆかりの地として有名です。

 明治6年(1873)中山久蔵氏が札幌郡月寒村島松(島松1番地)に水田10アールを開墾、ここで水稲(赤毛種)の栽培に成功し、千歳郡島松村から同地に移る。明治10年(1877)4月、札幌農学校教頭W・Sクラークが月寒村島松(北広島市)で見送りにきた学生と別れ「Boys, be ambitious!」(青年よ大志をいだけ)の言葉を残します。明治14年(1881)9月 、明治天皇が初めて北海道を巡行され、島松では中山久蔵宅を行在所として昼食をとられました。
 明治27年(1894)広島開墾および大曲、島松を月寒村から分離し「広島村」となります。大正10年(1921)初めて電灯が灯り(南の里、中の沢)、昭和43年(1968)に町制施行。平成8年(1996) に市制施行、広島町から広島市となりますが、広島県広島市との混同を避けるため即日改称し北広島市が誕生しました。



北広島市カントリーサイン

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当別町(とうべつちょう):19,982人(△3.8%)

 当別町は札幌市と境界を接し、札幌都心部から約15〜25kmに位置しています。 明治4年、仙台藩岩出山の領主・伊達邦直公が家臣共々移住し、開拓の歴史が始まりました。明治35年頃には札幌支庁管内(当時)で最も豊かな農村へと発展し、農業を基幹産業とした町の礎が築かれました。現在では、管内有数の米の生産量を誇っています。また、切り花の生産が盛んで、道内屈指の生産額となっています。

 近年は、札幌市や江別市という産業集積地の隣地であり、石狩湾新港と新千歳空港とを結ぶ交通の要衝であること、昭和63年の札幌大橋開通やJR学園都市線の増便などから宅地造成がなされ、札幌近郊の田園都市として発展しています。また、風景が似ているスウェーデン王国・レクサンド市との姉妹都市提携をメインとした積極的な国際交流の町として、大きな飛躍が期待されています。町名は、当別はアイヌ語「トウペツ」(沼から来る川の意)に由来しています。


当別町カントリーサイン

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新篠津村(しんしのつむら):3,737人(△5.2%)

 新篠津村は、明治29年、篠津村(現:江別市篠津)から分村したことから名付けられました。篠津はアイヌ語で、「本流が同じ深さで、ゆるやかに流れる(シ・ヌッチ)」、「大きな原野が沼(のような)(シ・ノ・ト)」などに由来すると言われています。明治33(1900)年に市街地に17軒の街並みができ今日の礎となりました。


新篠津村カントリーサイン

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