江差町(えさしちょう):10,131人(△7.6%) |
北海道の南西部に位置し、北海道文化発祥の地といわれる江差町。江戸期のニシン漁最盛期には「江差の五月は江戸にもない」といわれる程繁栄を極め、北前船交易によりもたらされた江差追分などの伝統芸能や生活文化が数多く伝承されています。
町名はアイヌ語「エサシ」(昆布の意)からでたもの。安政元年箱館奉行の支配となり、明治2年7月函館県に属し、同年9月弘前県に合併され、同年11月青森県に属した。同5年開拓使函館支庁の所属となり、町役人を廃し、戸長役場が設置されました。同30年檜山支庁の設置により、その管轄となり、同33年7月1級町村制を施行、町名が江差町に。昭和30年2月江差町と泊村が合併し、新たに江差町となり現在に至っています。
面積109.57ku、東西10q、南北17q、中央は厚沢部町が入りこんでB型の地形となっています。中央部を厚沢部川が流れて2分し、東部は山岳が多く笹山、元山があって笹山が町境で分水嶺をなし、山麓は丘陵になって海岸に迫っています。この沖合500mに浮かぶ鴎島は自然の良港を形づくり、市街地はこの対岸に発達していて、北部は厚沢部川流域を中心に水田耕作地として発達しています。
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上ノ国町(かみのくにちょう):6,417人(△10.3%) |
檜山エリア最南端にある町。日本海に臨み農漁業が盛んです。
北海道では数少ない中世の史跡・文化財を有する歴史の町でもあります。15世紀前期、津軽の安東氏は上ノ国と下の国の両氏に分かれており、この地は上ノ国安東氏の拠点であったことに由来します。
小山隆政(こやまたかまさ)、蛎崎季繁(かきざきすえしげ)が渡道し、花沢館を拠点として和人支配地の拡大を図っていました。当時各地の拠点として道南に12以上の館があったといいます。館主を中心に次第に勢力を蓄え 各地の館は、下之国(しものくに)、上之国(かみのくに)、松前の三守護職の支配下に置かれ、箱館、松前、上ノ国を拠点とする三つの商品流通圏が成立。中世の上ノ国は日本海北方交易の中心拠点でした。
木古内町との境にある尖岳(とんがりだけ)に源を発する天の川が北西に流れ、中心市街のある町北部の海岸で日本海に注いでいます。これに沿うようにJR江差線が通過し、天の川沿いに農業を、海岸沿いに漁業を主とする集落が点在しています。中心市街から西に約3km行くと、海にやや突き出す形で夷王山がそびえます。
このあたりは中世に松前氏が勝山館を築いた地で、当時の墳墓群もあります。山頂からは日本海と上ノ国市街が一望できます。周辺は野草の宝庫で、道立自然公園の一部にもなっています。昭和42年3月1日、町制が施行されました
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厚沢部町(あっさぶちょう):4,775人(△6.5%) |
厚沢部町は北海道の南部、渡島半島の日本海側に位置しています。古くは松前藩の所領。1678年(延宝6年)同藩のヒノキ山開放により、この伐採のため本州から杣夫(そまふ)が渡来しました。農業を副業として定着し、各河川流域の開墾が始められました。
1869年(明治2年)榎本武揚率いる幕府軍の攻撃を受け、一時支配下に置かれましたが、すぐに松前藩の所轄となり、1871年(明治4年)の廃藩置県の際には青森県に属しています。1872年(明治5年)北海道開拓使の管轄となり、1876年(明治9年)俄虫村戸長役場を設置。 1906年(明治39年)4月に二級町村制を施行し、村名を厚沢部村としました。 1960年(昭和35年)字名地番改正、1963年(昭和38年)3月に町政施行し現在に至っています。豊かな自然に囲まれたこの町の82%は森林が占めており、ヒノキアスナロ(ヒバ)や五葉松の北限、トドマツの南限ということもあって学術的にも貴重な地域です。
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乙部町(おとべちょう):4,817人(△6.3%) |
乙部町は北海道南部を形成する渡島半島の西部、檜山エリアのほぼ中央部に位置しています。南は江差町、北は熊石町に接し、西は日本海に面し、東は厚沢部町及び渡島山脈を境に渡島支庁管内八雲町に隣接しています。
日本海を北上する対馬暖流の影響を受け、比較的温暖です。初霜は11月上旬、冬期間は北西の強い季節風に見舞われますが積雪は0.5〜1.2mと少ないです。乙部とは、アイヌ語「オ・ト・ウン・ペ=川口に・沼・ある・もの」から転化したもので、川は現在、姫川と命名されています。イカ、サクラマス、スケトウダラなどの水産業が中心でイネ、食用百合根、ジャガイモなどの農業も盛んです。
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奥尻町(おくしりちょう):3,643人(△7.1%) |
奥尻郡、奥尻島にある町。飛行機で函館市まで40分、フェリーで江差町まで2時間10分。内陸部は山が多く、町の多くは海岸付近にあります。産業は主に漁業で、ウニ漁などが中心です。
1869(明治2)年7月、稲穂に鎮守鴎崎神社、幌内に薬師神社が建立されます。8月15日、後志国奥尻郡となり、釣懸・赤石・薬師・青苗の4ヶ村を設置。本郡及び久遠郡は、福岡藩の支配地となります。釣懸村弁天社に瀧津島毘売命を福岡藩が勧請し、社名が澳津神社と改称されます。
1872(明治5)年2月28日、開拓使に所属。5月、官立病院が釣懸村に置かれます。函館支庁遠郡奥尻出張所が設置。1879(明治12)年7月15日、釣懸・赤石・薬師・青苗の4ヶ村戸長役場を設置。久遠・奥尻・太櫓・瀬棚4郡役所を久遠に設けます。1906(明治39)年4月1日、北海道2級町村制施行され、戸長役場を奥尻村役場と改称。1966
(昭和41 )年4月1日、町制施行。
1993(平成5)年、7月12日、北海道南西沖地震で多数の犠牲者が出ました。(午後10時17分発生、震源奥尻北方沖約50km、マグニチュード7.8、大津波・火災・土砂崩れ等により被害甚大、死者行方不明者198名)。
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今金町(いまかねちょう):6,468人(△6.3%) |
北部は長万部岳、カニカン岳などの山岳地帯で、町の全域が一級河川後志利別川の流域です。男爵イモをはじめとした畑作のほか、稲作、酪農、林業が中心です。
今金の草創は、寛永年間頃、後志利別川上流(美利河、花石地区)においての砂金採取が始まりとされています。採取された砂金は、日光東照宮の造営に用いられたと伝えられています。
明治10年には、福井県若狭の人によって、花石にメノウが発見され、大島勘左エ門により、メノウ採取事業が始められました。また、マンガン・金・銀の鉱物資源も発見され、黄金の大地として人々の往来が盛んとなっていきました。
北海道開拓の気運の高まりの中、明治中頃には後志利別川流域の各地区に開拓者たちが,入地してきました。明治24年、神丘(インマヌエル)に志方之善他が入植、2年後に今村藤次郎、金森石郎ら15戸が今金に入植し、同29年市街地の設置を計画。宅地を129区画に割り、役場、警察の予定地を設けるなど、今日の今金の基礎をつくりました。
明治30年瀬棚町から分村し、利別村となりました。昭和22年10月1日、町制施行を機会に、開拓の先駆者であった今村藤次郎、金森石郎の二人の姓の冠字をとり、「今金町」と改称しました。平成9年自治制施行100年を迎え、7月15日に記念式典を行いました。
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せたな町:10,748人(△9.2%) |
平成17年9月1日、大成町・瀬棚町・北桧山町が合併し、せたな町が誕生しました。
檜山エリア北部にあり、北部は後志エリアとの境にある狩場山を中心とした山岳地帯で、これが日本海に落ち込むところに茂津多岬があります。また南東部も遊楽部岳を中心とした山岳地帯です。西側は日本海に面した急峻な海岸が続き、狩場茂津多道立自然公園に指定されています。海岸線沿いに国道229号が通っています。イカ、ホッケ、アワビ、カキなどの水産業、水稲、じゃがいも、メロン、ほうれん草、豆類、酪農などの農業が盛んです。
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