北見市(きたみし):129,264人(△2.2%) |
平成18年3月5日、北見市、端野町、常呂町、留辺蘂町が合併し、新「北見市」が誕生しました。
北見市は北海道の東部に位置しており、人口13万人のオホーツク圏最大の中核都市です。四季折々の鮮やかな自然を背景にした美しい街並みと、産業・経済・情報・文化・スポーツの発信基地として成長しています。また、企業・大学・行政が連携を深めながら技術力の向上や新製品開発など関連企業の振興を図っています。さらに、北見市は快晴日数が全国でも有数であり、広大な土地と豊かな森林資源に恵まれた条件を活かした農林業やソーラーエネルギーの利用など、さまざまな取り組みが行われています。
新「北見市」の面積は北海道では第1位。全国で第4位の広さです。これは、香川県の77%に当ります。石北峠からオホーツク海までが一つのまちとなり、その道路延長は約110Kmと、関東なら東京駅から箱根までに相当し、長さは日本一です。
市名の由来は、松浦武四郎が命名した国名「北見国」から。「北見」の由来は、過去のこの地域の通称「北海岸」と快晴の日に樺太が「見」える事から、一字ずつとったもの。町・村時代の「野付牛」の由来は、アイヌ語の「ヌップケシまたはヌプンケシ」(野の端または野の果ての意)が訛ったものとされています。
網走支庁オホーツク海沿岸地域の内陸部、北見盆地の中央に位置し、北見盆地は、中央部を南西から北東に流れる本流である常呂川と、支流の訓子府川・無加川・仁頃川によって形成されました。西には大雪山、東には網走、知床半島、北にはサロマ湖、南には阿寒国立公園を望みます。盆地にあるため気候は寒暖差が激しく、夏は約30度、冬は約-20度に達します。
特に畑作農業が盛んでタマネギの生産量は全国市町村でも1、2を争います。大正から昭和初期にかけて北見地方はハッカの生産で世界の7割を占めていたこともあり、ハッカ記念館があります。現在ハッカは化学的に合成する手法が主流となり栽培面積は激減しましたが、一部は現在も栽培されています。また、オホーツク海に面する海岸部では漁業が発達、ホタテなどが獲れます。
1872年(明治5)ノツケウシ村となる。
1875年(明治8) 漢字をあて、野付牛村となる。
1897年(明治30) 土佐(現高知県)の坂本龍馬の甥である坂本直寛らを主宰者とする移民(北光社移民団)112戸が北光社農場を開設、平民屯田兵597戸が入植、野付牛村・生顔常村戸長役場設置。
1911年(明治44)網走線の池田−野付牛間に鉄道が開通。
1915年(大正4) 留辺蘂村(現留辺蘂町)、置戸村(現置戸町)を分村。
1916年(大正5) 野付牛町と改称。
1921年(大正10) 端野村(旧端野町)、相内村(旧留辺蘂町の一部)を分村。
1942年(昭和17) 市制施行、野付牛町から北見市となる。(北見国で最初の市となる)
1956年(昭和31) 相内村を合併。
1979年(昭和54) 人口が10万人を超える。
1996年(平成8) 開基100年を迎える。
2004年(平成16)1月13日〜1月16日 記録的な暴風雪に見舞われる。降雪量は171cm。
2006年(平成18)3月5日 留辺蘂町、端野町、常呂町と合併。
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網走市(あばしりし):42,045人(△3.1%) |
網走エリア東部、北見市から東に約50kmの位置にありオホーツク海に面しています。高い山はなく、なだらかな丘陵地が多い地形です。市街は網走川河口付近と、その南に続く海岸段丘上の平地に広がっています。北西部に能取湖、中部に網走湖、東部に濤沸湖があり、それぞれ網走国定公園の一部です。一年を通じて晴天が多く、降雪量は少ないです。海に面するため寒暖差も少なく、北海道東部としては温暖な気候です。
網走という地名の由来は「ア・パ・シリ」(我らが見つけた土地)や「アパ・シリ」(入り口の地)あるいは「チバ・シリ」(幣場のある島)など諸説がありますが、いずれにしろ「アパシリ」というアイヌ語を漢字にあてたものとされています。
1872年(明治5) 北見国網走郡の名が与えられる(網走市の開基)。アバシリ村が設置される。
1875年(明治8) 漢字をあてて、網走村となる。
1902年(明治35) 網走郡網走村、北見町、勇仁村(いさに)、新栗履村(にくりばけ)を合併し2級町村制施行、網走郡網走町となる。
1915年(大正4) 能取村、藻琴村を合併
1921年(大正10) 女満別村(現女満別町)を分村。
1931年(昭和6) 女満別町との境界線を変更。
1947年(昭和22) 東藻琴村を分村する。市制施行し、網走市となる。
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オホーツク海沿岸のほぼ中央に位置し、一帯の土地は内陸へ徐々に高さを増し、西部は南北に連なる北見山地に、南部は東西に起伏する千島山系に囲まれています。
農耕地は天塩岳にその源を発する渚滑川流域より南東シブノツナイ川流域におよび、酪農・畑作が中心となっています。弁天岬から弓状に伸びる海岸線は風波を避ける天然の良港となっており、気候は冷涼で特に冬期は流氷の到来もあって寒冷になります。市名の由来は、アイヌ語の「モウペット」(静かな川)から。
日高支庁の門別町と読みが同じため、「オホーツク紋別」と呼んで区別する事が多いです。
オホーツク海沿岸の数少ない天然の良港として、貞享年間(1684年〜1687年)に松前藩がその直領としていた宗谷場所から斜里場所へ至るオホーツク海沿岸の寄港地として利用したのが始まりといわれています。明治13年には紋別村外9カ村戸長役場を設置し、以後、沿岸漁業の活性化や道路の開削、国鉄名寄線の開通により、人口は急増し、地域の行政および産業経済の要衝として発展を続けました。
昭和29年7月1日紋別町・渚滑村・上渚滑村の1町2村の合併により、漁業(特に毛がに・ホタテ)・農業(畑作、酪農)・鉱業を基幹産業とする人口3万6000人の「紋別市」が誕生しました。昭和48年、東洋一の産金量を誇った鴻之舞金山が閉山しましたが、昭和50年には紋別港が重要港湾に指定され、国際貿易港としての整備が現在も進んでいます。平成11年に新オホーツク紋別空港が開港し、平成12年には東京直行便が就航しました。また、我が国唯一の氷海域であるオホーツク海の特性を活かし、流氷を主役とする観光開発にも力を注いでいます。平成16年には近隣町村と連携して「オホーツクDOいなか博」を開催し、広域での体験型観光にも取り組んでいます。
1880年 紋別村外9ヶ村戸長役場が設置される。(開基)
1897年 紋別村外9ヶ村戸長役場から湧別村戸長役場(現湧別町)が分離する。
1900年 渚滑村が渚滑村戸長役場を設置し、分離・独立する。
1906年 渚滑村が2級町村制を施行する。
1909年 藻鼈村(もべつ)と紋別村が合併し、2級町村制を施行し、紋別村となる。このときに沙留村と瑠椽村を分離する。
1918年 渚滑村から滝上村(現滝上町)が分離する。
1919年 紋別村が町制施行を行い、紋別町となる。
1921年 紋別町が一級町村制を施行する。
1932年 渚滑村から下渚滑村が分離する。
1937年 渚滑村が村名を上渚滑村に改称する。
1940年 下渚滑村が村名を渚滑村に改称する。
1954年 紋別町・渚滑村・上渚滑村の1町2村が合併し、市制施行を行い、紋別市となる。
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大空町(おおぞらちょう):11,069人(△6.2) |
平成18年3月31日、女満別町と東藻琴村が対等合併し、大空町が発足しました。
東は小清水町、西は北見市、南は美幌町、北は網走市と接し、網走国定公園と阿寒国立公園に囲まれ、東経144度23分から144度02分、北緯43度42分から43度58分の範囲に位置しており、面積は343.62kuです。
旧女満別町の歴史を遡ると、明治23年(1890)、マッチ軸木材伐採のため造材小屋が作られ、人が居住したのを開拓のはじめとしています。明治31年(1898)には農業に従事する者が定住し本格的な開拓が始まりました。
大正元年(1912)には北見〜網走間に鉄道が開通し網走本線が全通、それ以後急速に入植者が増え、商業を営む者が出るなど基礎的な集落が編成されてきました。大正10年(1921)4月、網走市から分村し女満別村が誕生、昭和26年(1951年)4月には町制を施行し、平成18年3月31日に東藻琴村と合併し、現在に至っています。
旧東藻琴村は、明治22年に藻琴原野植民地計画としての実測が行われ、明治39年の春に梅谷房蔵氏他5名が、東1線と基線21号の交差点付近に仮小屋を設けて定住入地したのが始まりとされ、大正に入ると市街地区画割が行われ、大正4年には網走、能取、藻琴村3村を合併して網走町に1級町村制が施行され、東藻琴に改称しました。その後、昭和22年に網走町の市昇格とともに分村し、東藻琴村が誕生しました。アイヌ語の「モコト」または「モムト」(いずれも「眠っている沼」の意味)を語源 に「シノモコト」(真の藻琴川、藻琴川の本流の川上)に由来します。
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美幌町は、北海道の東部・網走支庁管内のほぼ中央部、網走市から30km程度内陸に位置しており、面積438.36kuを有する人口約23、000人の農業を基幹産業とした町です。南フランスのマルセイユやカナダとアメリカの国境にあるナイヤガラの滝等と同緯度にあたります。
多くの清流が、合流して水量が豊富なところをアイヌ語で「ピ・ポロ」(水多く、大いなる所)といい、これが転訛して「ビホロ」と名付けられました。明治初期まではカタカナで表記していましたが、明治8年5月に漢字の「美幌」に統一されました。この名のとおり、美幌町には大小合わせて60本を数える美しい川が流れ、とりわけ美幌峠を源とする美幌川は母なる川として多くの恵をもたらしてきました。美幌川沿いの一帯は、美幌の発祥地と言われ、流域のあちこちに先住民達の生活の跡が残っています。
1915年 美幌村となる。
1919年 津別村(現津別町)を分村。
1921年 津別村(現津別町)の一部を編入。
1923年 町に昇格、美幌町となる。
1946年 女満別村(現女満別町)の一部を編入。
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美幌町南部に隣接し、町面積の86%は森林が占めています。 北部は扇状地が広がり、農耕が盛んです。南部は山岳部で森林が広がり、釧路支庁に接する津別峠、釧北峠があります。町名は、アイヌ語の「ツペツ」(山の出ばなを通っている川)に由来しています。
1919年 美幌村(現美幌町)から分村、津別村となる。
1921年 美幌村(現美幌町)の一部を編入。
1946年 町に昇格、津別町となる。
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町名の由来はアイヌ語の「サルイ」(アシのはえているところ)から。 斜里郡の中心となる町で世界遺産の知床を有し、夏季は多くの観光客が訪れます。
明治5年、斜里郡の村名が定められ、ヤンベツ村、シャリ村、シマトカリ村など5ヵ村が誕生しました。明治10年には斜里浦役場が設置され、斜里町農業開拓の先駆者と言われている鈴木養太が入地した斜里村赤上1番地で初めてこの地に開拓の鍬を打ち下ろしました。大正時代の大きな変化は電話架設でした。また、大正11年から工事に着手していた釧網線が13年に開通し、翌14年には待望の鉄道が斜里まで開通しました。現在の斜里町の基幹産業である漁業は戦後の漁田開発により発達し、昭和22年から公共事業として進められた魚田開発により漁港施設の拡充が行われ、サケ定置網漁業を中心に現在も躍進を続けています。
昭和39年、知床半島が全国で23番目の国立公園に指定されたことをきっかけに、知床の自然が町民全体で守るべき貴重な財産として認識されていきます。昭和52年には、国立公園内の民有地を買い上げ、知床の大自然を守ろうと「知床100平方メートル運動」をスタート。この運動は、日本におけるナショナル・トラスト運動として、国際的にも高く評価されています。「知床100平方メートル運動」は、平成10年、初期の目的を達し、平成9年から新しく「100平方メートル運動の森・トラスト」がスタートしました。
知床の豊かな自然を背景に、四季折々に美しく変化していく自然のぬくもりの中で、斜里町は、人・街・自然が調和していくまちづくりを進めています。
1915年 斜里村となる。
1919年 小清水村(現小清水町)を分村。
1939年 町制施行、斜里町。
1943年 上斜里村(現清里町)を分村。
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清里町(きよさとちょう):5,025人(△7.6%) |
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町名の由来は「清らかな里」から。 また小清水村(現小清水町)・斜里町から分村した経緯を歴史に残すため 両町村から一文字ずつもらったという意もあります。
北海道の東部にある知床半島のつけ根に位置し、わが国有数の大規模畑作農業地帯として平らな畑が広がる緑豊かな町です。日本百名山にかぞえられる秀峰、斜里岳や神秘の湖摩周湖、さくらの滝などの大自然に囲まれ、これらの景観は平成4年度に行われた全国農村景観コンクールにおいて100選(特選20選)に選ばれています。
1943年 小清水村(現小清水町)・斜里町から分村、上斜里村となる。
1955年 町制施行、清里町に改称。
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小清水町は北海道の東北部、オホーツク海に面した網走支庁管内斜里郡にあり、郡内の西部に位置しています。町名の由来は、アイヌ語「ポン・ヤン・ペツ」(小さい清水の川)から。
周囲は北が全面オホーツク海に面し、東は斜里町、清里町と、西は網走市、大空町と、南は釧路支庁管内弟子屈町と接しており、総面積は287.04kuです。地形は南界を走る北見山地が形成する南部山岳地帯から、緩やかに北に向かって低下し、オホーツク海岸に達する傾斜状地が続きます。国有林におおわれた南部山岳地帯から中部地帯にかけては幾条もの丘陵が南北に走っています。
町はほぼ南北に長い長方形の形状を示し、オホーツク海の影響を受けるオホーツク海区型気候と内陸性気候に近い亜寒帯多雨気候区の2つの様相が連結混交する気候環境にあります。年間を通じて、降水量は少なく、日照率の高さは全国でも有数です。冬は雪が少なく、海には2月から3月にかけて流氷がやってきます。
1919年 斜里村(現斜里町)から分村、小清水村となる。
1943年 上斜里村(現清里町)を分村。
1953年 町制施行。
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訓子府町の名は、アイヌ語で「クンネプ」から転訛したもので「黒いところ、やち川にして水黒し」の意味から由来しています。
明治2年に蝦夷地という呼び名が北海道に、地方は北見国常呂郡となり、明治30年に北光社移民団のうち13戸が、オロムシ(現在の大谷地区)に入地したのが訓子府町の定住のはじまりです。明治44年に国鉄網走本線が開通し、訓子府駅が開業されると、辺境の地であった訓子府もにわかに活気を帯び、新しい農村への躍進の時代を迎えます。大正4年、野付牛村に1級町村制が施行され、今の訓子府は置戸村の一部として分村独立し、さらに大正9年、置戸村から独立して訓子府村となります。その後、昭和26年11月に町制を施行し、訓子府町となり現在に至っています。
農業(畑作)、酪農が発達し、特産物としてメロンが有名で、訓子府メロンブランドで知られています。 ほかに水稲、小麦、ジャガイモ、テンサイ、タマネギなども生産しています。
1920年6月 置戸村(現置戸町)から分村、訓子府村となる。
1951年11月 町に昇格、訓子府町となる。
1952年9月 一部を置戸町へ分割。
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網走エリア中部、北見市の南西部に位置しています。 地形は東西に長く、常呂川がおけと湖から東に向かって下っています。東部は丘陵地帯、西部は山岳地帯で広大な森林が広がっています。町名の由来は、アイヌ語の「オケトウンナイ」(鹿の皮を乾かすところ)から。
農業(畑作)、酪農、林業が発達。テンサイ、小麦、ジャガイモ、タマネギ、豆、メロンなどが生産されています。なかでもヤーコンの市町村別生産量では全国一を誇ります。また地元で産出される木材を生かした木工工芸品「オケクラフト」の生産も盛んです。
1915年4月 野付牛村(現北見市)から分村、置戸村となる。
1920年6月 訓子府村(現訓子府町)を分村。
1949年7月 留辺蘂町へ一部分割。
1950年1月 町に昇格、置戸町となる。
1952年9月 訓子府町の一部編入。
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佐呂間町(さろまちょう):6,393人(△4.1%) |
明治27年、青森県東津軽郡出身鈴木甚五郎が浜佐呂間に入植、半農半漁の営みに始まり、大正15年定期バス、昭和11年の鉄道の開通などにより人口が急増、昭和28年町制施行により佐呂間町となり、現在に至っています。アイヌ語の「サロ・オマ・ペット(葦のあるところ「サラ・オマ(葦のあるところの沼)」からサロマとなり、大正4年に漢字をあて現在の町名になりました。
オホーツク海から運ばれてくる澄んだ空気、日本有数の日照時間を有し、昼夜の大きな寒暖の差という大自然からの恩恵を受け生み出される農産物はバラエティに富み、かぼちゃ、小麦、ビート、ジャガイモ、豆類など、サロマ発の農産物は全国各地に送られています。また、特に酪農が盛んで、人口よりも牛の数が多く、牛は乳牛が主流です。
広い森林地域を持つ林業は、森を愛し、自然とともに生きるをモットーに、森林を総合的に活用しようと努力しています。「木材は輸入できても、森林は輸入できない」を合言葉に、林業=森林産業という大きな視野での林業に推進を図っています。
サロマ湖とオホーツク海。2つのうみを有しており、近い将来の資源枯渇に対処するため、いち早く栽培漁業への転換を図っています。なかでもホタテは高い品質とコンスタントな生産量を誇り、広く海外にも出荷されています。このほか、北海シマエビ、ウニ、カキなどの養殖も着実に伸びています。
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遠軽町は、網走支庁管内の中央に位置する商業・林業・農業が盛んな町。町名の由来は、町のシンボルである瞰望岩(がんぼういわ)を指すアイヌ語「インガルシ」(見晴らしの良いところ)から。平成17年10月1日、生田原町・丸瀬布町・白滝村と対等合併し、新生の遠軽町がスタートした。
オホーツク海型気候と地形が盆地状のため、年間の寒暖差が大きい。毎年5月から6月の初夏にはフェーン現象により気温が35度を超えることがあるが、7月下旬から8月にかけてオホーツク海高気圧の停滞により低温状態が続くことも多い。厳冬期は零下20度を下回ることもあり、高台からは遥かオホーツク海に流氷の姿を望むことができる。
近年は初秋に1,000万本の花々が咲き誇る日本最大級のコスモス園を造成し、観光にも力を注いでいる。9月上旬から下旬にかけてが見頃である。
1919年 紋別郡上湧別村(現上湧別町)から分村、二級町村制、紋別郡遠軽村となる。
1925年 遠軽村から生田原村が分村。
1934年 遠軽村が一級町村制、町制施行、遠軽町。
1946年 遠軽町から丸瀬布村、白滝村が分村。
1953年 丸瀬布村が町制施行、丸瀬布町となる。
1954年 生田原村が町制施行、生田原町となる。
2005年 遠軽町、生田原町、丸瀬布町、白滝村の3町1村が対等合併。遠軽町となる。
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北海道の東北部、網走支庁管内の中央部に位置し、面積は161,39Kuと網走管内では2番目に小さな町です。地形は、北見峠から発している湧別川が中央に流れ、この地域に平坦地が広がっています。オホーツク海型気象地帯としての特色をもち、四季を通じて比較的気温は高く、降水量は年間600〜800oと北海道内においても小雨地域で、冬季の降雪量も少なく快適な生活地域となっています。
明治当初、未開の地であったこの地域にわずかな和人が住み着き、先住民であるアイヌの人たちと共に、漁業や狩猟、そして農場を営んでいましいた。本格的に開拓の鍬が入ったのは、明治30、31年。全国より北辺の開拓と警備の任務に志した屯田兵が移住し、総勢399戸の集落が築き上げられ近代社会が発展していくことになります。明治39年には湧別村が誕生。明治43年に分村し上湧別村が誕生(分村当時1,230戸5,833人)します。
その後、鉄道・名寄本線が大正11年に、昭和28年に湧網線が全線開通し、交通の要衡として発展しました。ユウベツとは、アイヌ語で「鮫(サメ)の住む川」の意味で、これは昔、湧別川河口から近海にかけて相当数の鮫が生息していたことから、この名で呼ばれていたものと言われています。そして、湧別村から分村したときに「上」が付け加えられ上湧別村に、昭和28年9月29日の町制施行により上湧別町になりました。
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町名の由来は、アイヌ語の「ユペ」(鮫)から。オホーツク海に面し、湧別川河口に位置しています。町東部にはサロマ湖があります。
湧別市街を中心に「八」の字型に西部及び東南部に広がり,東西29.4km,南北31.2km総面積は344.34kuです。このうち湖(サロマ湖・シブノツナイ湖)を除く大部分が山林で河川沿いに原野が広がっています。オホーツク海型気候地域として日照時間が長く、降水量が少なくそして冷涼な気候が特徴です。2月にはオホーツク海に押し寄せた流氷が接岸し、冷え込みが一段と厳しくなります。
1897年 紋別村外9ヶ村戸長役場(現紋別市)より分離・独立し、湧別村戸長役場を設置。
1906年 2級町村制を施行し、戸長役場を廃止。村名を(旧)湧別村とする。
1910年 (旧)湧別村を分割し、紋別郡下湧別村(2級町村制)となる。
1940年 1級町村制を施行。
1950年 一部を常呂郡佐呂間村(現佐呂間町)に移管
1953年 町制施行及び改称、湧別町となる。
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滝上町(たきのうえちょう):3,366人(△11.4%) |
北海道網走管内の北部に位置し、上川管内に接する町です。 町名は渚滑川の滝の上手にあることに由来します。
かつてはハッカの産地。現在はわずか10haほどの畑でしか作られているのみですが、ほかに栽培している地区がないために全国の95%という驚異的なシェアを誇っています。また、滝上公園のシバザクラ(10万u=甲子園の7倍の広さ)も有名。見頃は5月下旬〜6月上旬にかけて。童話村としての町おこしもすすめています。
1918年 紋別郡渚滑村(しょこつ)(現紋別市の一部)から分村、二級町村制、紋別郡滝上村。
1947年 町制施行、滝上町。
1990年 国土庁(現国土交通省)の「農村アメニティ・コンクール」で2位を獲得。
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網走エリアの北部に位置する町で「おこっぺ牛乳」が有名。町名の由来は、アイヌ語の「オウコッペ」(川尻の合流しているところ)から。基幹産業は酪農、林業、漁業。ホタテ、サケ、マス、毛蟹などが獲れます。かつては名寄本線、興浜南線が通っていましたが、現在は廃止されており、北紋バスによる路線バスに代わっています。
1915年 紋別郡瑠橡村(るろち)、沙留村(さる)、興部村が合併、二級町村制、紋別郡興部村。
1925年 紋別郡西興部村が分村。
1951年 町制施行、興部町。
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西興部村は、網走エリア北部に位置する村で、明治37年、開拓の鍬がおろされてから90余年が経ちます。
西興部の興部とは、アイヌ語の「オウコッペ」より転訛したもので「川尻の合流しているところ」の意であり、当時興部川、藻興部川が合流し、オホーツク海に注いでいたことから、このように呼ばれていました。
本村は興部の西方に位置するため西の字を冠しています。1925年紋別郡興部村(現興部町)から分村し、二級町村制、紋別郡西興部村となりました。
基幹産業は酪農。農業に就労する者の数は人口の1割もいませんが、近年は1戸あたりの規模が大きい農家の割合が高くなっています。人口に占める高齢者の割合が非常に高いため就労者は人口の半数ほど。
村内の主な企業は土建業、シイタケ栽培工場、ギターのボディを製造する工場などです。ほかに特別養護老人ホーム、知的障害者福祉施設があるためそれらに就労する人の割合が高いです。
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雄武町は、北海道の東北部の網走エリア最北端に位置し、東西40km、南北24km、面積は東京都23区の合計(621.42ku)よりも広い637.03kuを有しています。鮮やかなコバルトブルーのオホーツク海に臨む海岸線が35kmに及び、海岸から南西に伸びる大地には緑輝く牧草地が一面に広がり、その背後には原生林が残る秘境ピヤシリ山をはじめとする山系が連なっています。
雄武という地名の語源は、アイヌ語の「オムイ」(河口が塞がる)に由来します。雄武川の河口は、嵐の時には、川から流れ出る水よりも、海から打ち寄せる波のほうが強く、河口が塞がってしまうため、このような名称がついたと言われています。
雄武周辺への和人の入植は、江戸時代末期に開かれた宗谷場所が拡大し、雄武周辺にも番屋が建てられたところから始まります。明治5年(1872)には紋別郡10ヶ村のひとつとして雄武・沢木・幌内の3村が誕生します。以後、新漁場として開発された雄武地区に人口が急増し、明治33年(1900)には紋別村より分村して雄武外3ヶ村戸村役場が設置されます。大正4年(1915)に沢木村・幌内村を合併して2級町村制が敷かれた後、昭和23年(1948)に現在の町制が施行され、今に至ります。
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