十勝エリアガイド


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十勝エリア【Tokachi】


 十勝エリアは、帯広市を中心に十勝平野に広がる1市16町2村の地域です。十勝岳の東斜面に発源する十勝川は長さ156km、北海道第3位の長さを誇り、十勝平野を潤しています。 

 北海道面積の10%ほどを占める広大な十勝平野は日本有数の畑作・酪農地帯。麦類、豆類、バレイショ、てん菜を主体とした輪作体系が組まれており、多くの作目で全道一の生産量となっています。酪農では、飼養農家戸数は減少の傾向にありますが、1戸当たりの飼養頭数は106頭、生乳生産量は98万t。これは全道の約4分の1の生産量に当たります(平成15年)。近年、肉用牛の飼養頭数が大幅に増加し、平成15年では17万頭と全道一の頭数となっています。酪農地帯であることから乳用種で占めていますが、最近では黒毛和種など肉専用種の導入も盛んです。

 北に大雪山国立公園、東に阿寒国立公園、南に日高襟裳国定公園に太平洋と周辺の雄大な山岳景観と田園風景の対比がもっとも北海道らしい風景を生み出しています。アクティブに楽しみたい方はホースライディング、カヌー、パラグライダー、熱気球なども楽しめます。

 十勝エリア内では、十勝川温泉(音更町)をはじめとする「モール温泉」、「旧士幌線コンクリートアーチ橋梁群」(上士幌町)、北海道の馬文化である「ばん馬」(帯広市)や日本一大きな「螺湾(らわん)ブキ」(足寄町)が北海道遺産に選定されています。


十勝エリアの市町村

帯広市/音更町/士幌町/上士幌町/鹿追町/新得町/清水町/芽室町/中札内村/更別村/大樹町/広尾町/幕別町/池田町/豊頃町/本別町/足寄町/陸別町/浦幌町


十勝エリア位置図

凡例(箇所)
保育所
幼稚園
小学校
中学校
高等学校
病院
診療所
歯科診療所
公民館
図書館

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帯広市(おびひろし):170,586人(△1.4%)
 
 十勝支庁管内の支庁所在地。帯広の名はアイヌ語「オペレペレケプ」(川尻が幾つにも裂けている所)、または「オベリベリ」(湧き水が流れる口)に由来すると言われています。

 帯広の街は、官主導の屯田兵や旧幕府家臣による開拓ではなく、静岡県出身の依田勉三率いる晩成社一行が1883年(明治16)5月に入植したのが開拓の始まりです。開墾は冷害や虫害など苦難の連続でしたが、1895年(明治28)に北海道釧路集治監十勝分監(現在のグリーンパーク)が開設されると、受刑者によって大通が整備されていき、市街地が形成されていきます。市街は計画的に整備されており、帯広駅を中心に碁盤目状の区画が四方に広がり、ところどころ対角線方向の道路も設けられています。これはアメリカの首都ワシントンD.C.にならったものです。

 十勝地方の農産物の集散地としてまちは成長していましたが、交通機関の発達とともに拠点性を失いつつあり、また自衛隊の旅団化による人員削減、近隣町村への人口流出などにより近年は人口が減少しています。
 気候は寒暖の差が激しく、夏は約30度、冬は約-20度になります。積雪量は東北海道の他の地域に比べて多めです。

1893年(明治26) 河西、河東、上川3郡各村戸長役場が置かれる。
1901年(明治34) 下帯広村8村戸長役場に改称。
1902年(明治35) 二級町村制施行、帯広町となる。
1915年(大正4) 伏古村の一部を併合。一級町村制施行。
1933年(昭和8) 市制施行、帯広市となる。
 


帯広市カントリーサイン

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音更町(おとふけちょう):42,451人(+8.3%)
 
 十勝エリアのの中心、帯広市の北に位置します。町名の由来は、アイヌ語の「オトプケ」(毛髪が生ずる)より「川の流れが乱れた髪の毛のようだったから」という説と、「河川に密生する柳の様子が髪の毛のようだったから」という説があります。

 音更町の歴史は古く安政5年(1858)に松浦武四郎が十勝内陸を踏査した時に、既にこの地に足を踏み入れているといわれ、明治の初頭、アメリカ人のライマンが音更川沿いに踏査したとも伝えられています。明治13年には、岩手県人大川宇八郎がこの地に定住を始めました。その後、入植者も増え、種牡馬の飼育や水稲作が行われるようになり、明治34年に音更ほか2村戸長役場が設置されます。明治39年に2級村制が施行され、大正10年には1級村に昇格。昭和28年に町制が施行され、平成12年には開町100年を迎えました。

 基幹産業は農業で、主要作物は小麦、ビート、馬鈴薯、豆類、甜菜などで、酪農も盛んです。寒冷地農業の確立をめざして、コストの低減、機械の共同化、さらには基盤整備の推進で、農業経営の近代化を図るなど、将来に向けての基盤づくりにも積極的に取り組んでいます。
 また帯広市に隣接しているため、ベッドタウンとしても発達しています。雄大な十勝平野の中央を流れる十勝川のほとりにある十勝川温泉は、世界でも珍しい「モール(植物性)温泉」として広く知られており、平成16年11月に北海道遺産に指定されています。町内には、家畜改良センター十勝牧場、十勝が丘展望台、直径18メートルの花時計「ハナック」、北海道立十勝エコロジーパークなどがあり、四季を通して観光客が訪れています。

1901年(明治34) 音更外二村戸長役場が設置される。
1906年(明治39) 二級町村制が施行され、音更村となる。
1921年(大正10) 川上村(現士幌町)、鹿追村(現鹿追町)を分村。この年には、一級町村制が施行される。
1953年(昭和28) 町制施行、音更町となる。
 


音更町カントリーサイン

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士幌町(しほろちょう):6,755人(△1.2%)

 東大雪山系の東ヌプカウシヌプリを最高峰にした北の大地、士幌町。町域の西北部に山岳地帯、東部に丘陵(佐倉山系)と河岸段丘地帯(居辺川)を広げています。

 十勝国の開発は、明治19年1月の北海道庁開設で軌道に乗り始めましたが、士幌町の本格的入植の始まりは、明治31年3月のこと。岐阜県で設立された美濃開墾合資会社の一行(43戸)が同年に中士幌の現地へ入植し、大地を開拓。うっそうと広がった原始林を切り開き、不撓の開墾を進めました。その8年後には、音更町沿岸100戸分(士幌地区)の入植開拓が行われたため、次第に人々が活発に移住。中士幌地区と共に、士幌発展の基盤が築かれました。当時、町を開拓した美濃開墾合資会社は、岐阜県の濃尾大震災と水害の頻発から「北海道で一旗上げよう」と、十勝に移住してきました。

 町の名前になっている士幌は、アイヌ語の「シュウウォロー」(広大な土地の意)が転訛して名付けられたものだと言われています。

1921年(大正10) 音更村(現音更町)から分村。川上村となる。
1925年(大正14) 川合村(現池田町)の一部を編入。
1926年(大正15) 士幌村に改称。
1931年(昭和6) 上士幌村(現上士幌町)を分村。
1933年(昭和8) 池田町の一部を編入。
1962年(昭和37) 11月 町に昇格、士幌町となる。


士幌町カントリーサイン

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上士幌町(かみしほろちょう):5,227人(△7.2%)

 十勝エリア北部に位置し、南北に長い地形をしています。 南部は平野が広がり、畑作地帯となっています。 北部は山岳地帯、国道273号三国峠を通じて上川支庁と接し、多くの山岳を有しています。北海道遺産に選定された「旧国鉄士幌線コンクリートアーチ橋梁群」があります。 町名の由来は、アイヌ語の「シュウウォロー」(広大な土地)から。

 熱気球のバルーンフェスティバルが有名で、1974年(日本気球連盟発足1973年)に第1回熱気球フェス(参加機数5機)が開催され、1976年の第3回熱気球フェス(参加機数14機)では、国内初の熱気球による競技会が行われました。毎年2月と8月にイベントが開催されています。

1931年(昭和6) 士幌村(現士幌町)から分村。上士幌村となる。
1954年(昭和29) 町に昇格、上士幌町となる。


上士幌町カントリーサイン

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鹿追町(しかおいちょう):5,873人(△0.6%)

 北海道の中心、大雪山国立公園の南麓で十勝の北西部に位置し、北は高くゆるやかな南傾斜が扇状に広がる高丘地帯で、南下するにしたがって平坦になり、北に聳えるウペペサンケ、ピシカチナイ山、東西ヌプカウシヌプリなどの諸山と然別湖などの湖沼を水源とする然別川が北から南に縦断しています。

 この地域は牧畜農耕適地で、北部の地域は一部陸上自衛隊の演習場になっています。然別湖(しかりべつこ)は北海道の天然記念物に指定されているサケ科イワナ属の淡水魚・ミヤベイワナ(オショロコマの別亜種)が生息していることでも知られる湖です。大雪山系の山麓地帯にあって冬(1月〜2月)は大体−13度前後ですが、年によっては−20度以下を記録することもあります。町名は、アイヌ語の「クテクウシ」(鹿を追う広大な土地)を意訳したものです。

 鹿追町の歴史は、明治35年に東京の山田松次郎が、現在の下市街付近に入植したのが始まりといわれています。その後、大正2年同地域に駅逓が開設され、また本州各地からの移住団体等の入植により次第に人口も増加し、それに伴い郵便局、巡査駐在所、料亭なども相次いで開設されました。

1921年(大正10年)4月 音更村(現音更町)から分村、鹿追村となる。
1959年(昭和34年)9月 町に昇格、鹿追町となる。


鹿追町カントリーサイン

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新得町(しんとくちょう):7,243人(△5.4%)

 新得町は総面積の約90%が森林地帯。そのうち84,389haが国有林で、さらにその2/3が大雪山国立公園に指定されているという大自然いっぱいの町です。面積は東京都の約1/2の1,064ku、人口密度は7.2人/ku、思う存分遊びまわれる広い大地です。間伐材を国産初の住宅用2×4材に加工する工場など木工場が6社あり、製材の出荷量は十勝でも有数な規模を誇ってます。

 町名は、アイヌ語の「シットク・ナイ」(山の肩、または端)に由来します。また、アイヌの人たちがお酒を造るための漆器を「シントコ」といい、これを作るための土地だったとも言われています。
また聴覚障害者の授産施設「わかふじ寮」、全国で2番目に建設された聴覚障害者専用の老人ホーム「やすらぎ荘」など福祉施設がたくさんあり、町民も手話グループをつくるなど積極的に福祉活動をしています。

 昼間は温かく夜涼しい新得町の気候は、そばづくりに大変適しており、中でも新得町のそばの生産量は年間700tで、作付面積は160ha(14年度)です。高品質のそばを製造し続けた努力が実を結び、平成元年第1回全国そば生産優良経営表彰式において新得のそば生産農家が又平成11年度団体の部で最高賞である農林水産大臣賞を受賞し、名実ともに日本一のお墨付きを得ています。酪農も盛んで、北海道立畜産試験場(旧・新得畜産試験場)が設置されています。

1899年(明治32) 山形県北村山郡高崎村(現東根市)から入植。
1900年(明治33) 芽室外6カ村戸長役場(現芽室町)が設置。
現在の新得町は1900年〜1903年までは芽室外6カ村戸長役場(現芽室町)の管轄であった。1903年には現在の清水町が芽室外6カ村戸長役場から人舞村外一村戸長役場として分離・独立した。この時、今の新得町はこの人舞村外一村戸長役場の管轄となった。
1915年(大正4) 人舞村外一村戸長役場(現清水町)から屈足(くったり)村として分離・独立し、二級町村制を施行する。
1921年(大正10) 人舞村(現清水町)の一部を編入。
1923年(大正12) 一級町村制を施行し、屈足村から新得村と改称
1933年(昭和8) 町制施行、新得町となる。


新得町カントリーサイン

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清水町(しみずちょう):10,464人(△4.8%)

 道央と道東の峠である日勝峠(にっしょうとうげ)の東側に位置し道東の玄関口となる町。
 清水はアイヌ語の「ペケレベツ」を和訳したもので、「明るく清らかな川」という意味です。明治36年6月15日、ペケレベツに人舞村外一村戸長役場が置かれ、人舞、屈足村を直轄していました。大正4年4月1日に屈足村が分離し、人舞村と称しました。しかし、駅名と一致せず行政・経済面で不便なため、昭和2年9月25日に清水村と改め、昭和11年1月1日より町制が施行され現在の清水町となりました。

 ベートーヴェンの交響曲第9番(第九)を全国町村で初めて合唱した事から「第九の町」として知られています。

1903年 芽室外6カ村戸長役場(現在の芽室町)から人舞村外一村戸長役場として分離・独立する。
1915年 屈足村(現在の新得町)を分村。
1921年 御影村が芽室村(現在の芽室町)から分村。
1927年 人舞村が清水村に改称。
1936年 町制施行して清水町となる。
1956年 清水町が御影村を編入。


清水町カントリーサイン

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芽室町(めむろちょう):18,304人(+4.1%)

 十勝エリアの中心部に位置する町。近年は、帯広市のベッドタウンとして発展。町名の由来は、アイヌ語の「メムオロ」(池から流れている川)から。 ゲートボール発祥の地として知られています。

1900年 芽室外6カ村戸長役場を設置する。
1903年 人舞村外一村戸長役場(現在の清水町)を分離する。
1906年 二級町村制施行。
1919年 一級町村制施行。
1921年 一部を御影村(現在の清水町の一部)として分離する。
1942年 町制施行。
1958年 清水町上芽室地区の106戸を編入する。
1989年 開基90年記念式典が行われる。
1999年 開町100年記念式典が行われる。


芽室町カントリーサイン

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中札内村(なかさつないむら):3,983人(△3.2%)

 村名の語源は、アイヌ語で「乾いた川」を意味する「サチナイ」と、「札内川の中流に位置する」という意味からなっています。

 夏季は20度前後と温暖で、冬季はマイナス10度前後と寒暖の差が激しいのが特色です。北海道中でもドライゾーンであるため、特に冬には降雨、降雪量が少なく、「十勝晴れ」といわれるカラリと晴れた日が続きます。

 村では、昭和47年から重点作物を牛乳、肉豚、養鶏、甜菜、馬鈴薯、小麦、豆類として農家個々の専業化を図りながら、畑作と畜産の連携(有機物の還元)を進める地域複合化路線を進めてきました。家畜のふん尿を畑地に還元し、中札内村の合言葉である「循環農業」の定着です。輪作体系を確立し、生態学的循環の法則を守り、農薬万能主義から脱却を図ります。「土から出たものは土に返せ」を合言葉に「生きた土」でのクリーン農業に取り組み、健康で安全な食生活を提唱しています。1985年(昭和60)には家畜糞尿や農作物残さなどの畑への還元量が10アールあたり堆肥換算で1.9トンに達したことから「有機農業の村」を宣言しました。

 中札内村の入植者の定住は、明治38年にまで遡ります。その後、明治45年には帯広まで道路が開通、昭和4年には住民念願の鉄道も開通しました。昭和22年に大正村から分村して、中札内村が誕生しました。開村当時人口は4,400人(昭和22年国勢調査)で、約740戸でした。


中札内村カントリーサイン

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更別村(さらべつむら):3,325人(+1.0%)


 十勝エリア南部に位置し、東は幕別町、西は中札内村、南は大樹町、忠類村、北は帯広市とそれぞれ接しており、十勝の母都市である帯広市から南へ35kmの地点にあります。村名は、アイヌ語の「サラペツ」(アシ・カヤが生い茂る地の意)に由来しています。

 畑作はテンサイ、ジャガイモ、アズキ、インゲンマメなどが主産物。大規模化・機械化による効率経営を早くから推し進めた地域で、農家1戸あたりの経営面積は十勝支庁管内で最大、全国でも有数。畜産は乳用牛が中心。大正15年4月に大正村(現帯広市)に属し、昭和22年9月に大正村から分村、村名を更別村としました。昭和23年4月に幕別町の一部(現在の勢雄区・協和区)を編入し、現在に至ります。


更別村カントリーサイン

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大樹町(たいきちょう):6,407人(△4.5%)

 大樹町は北海道の東部、十勝の南に位置し、東は太平洋、西は日高山脈に接し、中央部は広大な十勝平野が広がり、農業を中心に漁業、林業を基幹産業として発展してきました。

 日高山脈より日本一の清流「歴舟川」がまちを流れ、海岸には原生花園が広がり、美しい自然に恵まれています。町名はアイヌ語で「大木が群生するところ」を意味する「タイキウシ」からつきました。日高山脈南部のコイカクシュサツナイ岳に源を発し、大樹町を横断したのち太平洋へと注ぎ込む歴舟川は、昭和62以降6回(昭和62〜平成元年・3・5・12年)環境庁の公共用水域水質調査で日本一きれいな河川に選ばれ、また平成8年には国土庁から「水の郷100選」に選定された全長64.7kmの日本一の清流です。

 悠久の流れが運んだ黄金の夢。古くから宝の川と呼ばれる歴舟川の川底には、激しい流れが運んだ砂金が眠っています。寛永12年、アイボシマ付近で行われたのが始まりと言われる歴舟川で砂金採取が始まってから370年。今も人々は黄金物語に夢を見て歴舟川を訪れます。

 大樹町は、十勝南部に位置し太平洋と日高山脈を境とした恵まれた土地条件を生かして酪農・畑作・肉牛を基幹とした大規模土地利用型農業を営んでいます。現在の農家数339戸の内酪農家が240戸、肉牛飼養農家が70戸と総農家数の91.4%を占めるに至っています。また、規模拡大も年々進み一戸当たりの飼養頭数では、乳牛で84.2頭、肉牛でも73.6頭となっています。
 近年は「宇宙のまちづくり」を標榜し、航空や宇宙分野での実験や飛行試験を積極的に誘致しています。

1928年 広尾郡広尾村(現広尾町)から分村、広尾郡大樹村。
1930年 国鉄広尾線延伸、大樹駅開業。
1949年 広尾郡忠類村が分村。
1951年 町制施行、大樹町。
1955年 十勝郡大津村の一部を編入。
1987年 広尾線廃止。


大樹町カントリーサイン

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広尾町(ひろおちょう):8,324人(△7.3%)

 十勝管内の最南端にある町。町の名前の由来はアイヌ語の「ピルイ」で、「転がる砥石」を意味しています。町の東側には太平洋が、西側には日高山脈がそびえ、豊かな海や森など雄大な自然に恵まれた町です。

 広尾町は十勝で最も古い歴史を持ち、明治期まで十勝の政治・経済・文化の拠点となっていました。
 1980年に広尾町にオープンした広尾海洋水族科学館とノルウェー国立ベルゲン水族館が姉妹提携したことからサンタの国ノルウェーとの交流が始まり、広尾町は1984年にノルウェーのオスロ市からサンタランドとして認定され、ノルウェー国外初のサンタランドとなりました。広尾町はサンタランドの認定を受けて以来、「愛と平和、感謝と奉仕」を基本理念としたサンタランドにふさわしい町づくりやイベントなどを行っています。

1906年 広尾郡茂寄村(もより)、当縁郡(とうぶい)大樹村、歴舟村(べるふね)、当縁村の一部が合併、二級町村制、広尾郡茂寄村。
1926年 広尾村に改称。
1928年 広尾郡大樹村(現大樹町)が分村。
1946年 町制施行、広尾町。
1984年 ノルウェーのオスロ市からサンタランドの認定を受ける。


広尾町カントリーサイン

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幕別町(まくべつちょう):26,833人(3.0%)

 平成18年2月6日、幕別町・忠類村が合併し、新・幕別町が誕生しました。
町名の由来は、アイヌ語の「マクンベツ」(山ぎわを流れる川)から。パークゴルフ発祥の地として知られ、農業(畑作)、畜産が盛んです。主に甜菜、小麦、馬鈴薯、豆を生産しています。帯広市に隣接しているため、ベッドタウンとしても発達しています。

 明治33年(1900)、依田勉三は石狩地方から種もみを手に入れ、途別農場で試作しました。この時の収量は反当たり1俵半から4俵(1反は10a、1俵は60kg)。晩成社途別農場の小作人小屋は「きまり小屋」と呼ばれ、その名の由来は、間口3間・奥行き2間の6坪の“決まりきった大きさ”の家が37棟建っていたことから、と伝えられてます。
 明治38年(1905)年、釧路線が開通し止若(やむわっか)停車場が営業を始めました。その当時の幕別の中心地は猿別市街。「柵のない牧場」と言われ放牧地にすぎなかった止若(現在の幕別市街)に駅が設けられたのは、猿別市街は大雨のたびに洪水の危険にさらされること、土地が狭く傾斜しているため発車・停車に支障があることからでした。

 幕別のバター製造の歴史は古く、大正6年(1917)、西糠内の新田牧場が作り始めました。すべての工程が手作業で、日産10ポンドから20ポンドを製造、駄鞍に乗せて止若まで運ばれました。このバターは「発酵バター」の名で、テーブルバターとして愛用されたそうです。また、大正7年には南勢の福家牧場でも自家生産乳でバター製造を始め、1ポンド1円10銭で市販されました。

1906年(明治39) 幕別村となる。
1926年(大正15) 大正村(現帯広市)へ一部分割。
1946年(昭和21) 町に昇格、幕別町となる。
1947年(昭和22) 池田町の一部編入。
1948年(昭和23) 更別村、大正村(現帯広市)へ一部分割。
2006年(平成18) 2月6日、忠類村を編入。


幕別町カントリーサイン

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池田町(いけだちょう):8,191人(△6.0%)

 町営でブドウ栽培・ワイン醸造を行っており、「ワインの町」として知られています。町名は、町内にある池田農場内池田停車場に由来。十勝平野の東縁にあたり、平坦な土地が多いです。南西の幕別町との境界を十勝川が流れ、その支流である利別川が町域中央を南北に貫流しています。十勝川の河道が切り替えられるまでは池田町の中心市街付近で利別川と合流しており、明治時代には河港として栄えていました。

 畑作はインゲンマメや小豆などの豆類、甜菜、ばれいしょが中心。畜産は肉用牛が主ですが、酪農も行われています。またブドウの耐寒性品種の栽培も行われており、町営工場ではワインが製造され十勝ワインの名で知られています。小規模ながら水田もあります。 

 池田町は明治32年に凋寒外13カ村戸長役場が設置されてから、平成10年5月に開町100年を迎えました。池田町に初めて入植したのは明治12年に山梨県出身の武田菊平と言われています。その後、本格的に開墾が始まったのは明治29年。鳥取藩主の池田公爵による「池田農場」と大資本家の高島嘉右エ門による「高島農場」の二大農場によって開拓が進められました。町名は明治39年に「凋寒(シボサム)村」とし、大正2年4月に「川合村」と村名を変更。大正15年には町制施行とともに現在の池田町の名称になりました。

1899年 凋寒外13カ村戸長役場が設置される。
1906年 凋寒村(しぼさむ)となる。
1913年 川合村に改称。
1925年 士幌村(現士幌町)に一部を分割。
1926年 町制施行、池田町に改称。


池田町カントリーサイン

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豊頃町(とよころちょう):3,732人(△10.4%)

 豊頃町は十勝地方の東南端に位置し、農業と漁業を基幹産業とする町です。町名の由来はアイヌ語の「トエコロ」で、「大きなフキが生えていたところ」と言われています。農業(畑作)、酪農、漁業が盛んです。畑作は馬鈴薯、甜菜、小麦、豆、大根などを主に生産しています。また大津漁港を拠点とする漁業では、サケ、カニ、ホッキ貝、シシャモなどが獲れます。

 豊頃町は、明治13年(1880)に大津外4郡戸長役場が置かれたのを開町とし、平成12年に120年を迎えています。豊頃に、本格的な開拓の鍬が入れられたのは明治中期で、明治30年(1897)には本町の開拓に大きな役割を果たした二宮尊親(二宮尊徳の孫)が福島県から興復社一行を率いて二宮地区に入植しています。時を前後して、町内各地に移民が入植し、明治39年(1906)には豊頃は戸数700戸あまり、人口3,500人を数える村に成長しました。その後、昭和30年には、豊頃村と大津村中部地区が合併し、戸数2,000戸、人口10,180人となり、開町85年にあたる昭和40年1月1日から町制が施行されています。

1798年(寛政10)頃 番屋・駅逓が設置され、十勝地方開拓の拠点に。
1880年(明治13) 大津外4郡戸長役場が設置される。
1893年(明治26) 大津に中川郡各戸長役場が設置される。
1899年(明治32) 中川郡旅来を除く豊頃外13か村が大津戸長役場から分かれる。(中川郡豊頃村安骨村戸長役場が設置される)
1906年(明治39) 二級町村制が施行され、豊頃村となる。
1955年(昭和30) 大津村の一部を編入。
1965年(昭和40) 町制施行、豊頃町となる。
2000年(平成12) 開町120年記念式典が挙行される。


豊頃町カントリーサイン

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本別町(ほんべつちょう):9,072人(△9.5%)

 十勝エリア北東部の内陸に位置しています。町域中央を利別川が南北に貫流し、東西の丘陵から支流を集めています。町の南部、美里別川が利別川に合流する地点に盆地状の小平野が広がっており、ここに中心市街があります。帯広市と北見市を結ぶ道路・鉄道と、十勝平野北部を東西に結ぶ道路の交差する地点にあり、交通の要衝ともなっています。道東自動車道では本別町にジャンクションが置かれており、ここで北見方面と釧路方面に分岐しています。

 アイヌ語の「ポン・ベツ」(小さい・川)を語源とし、本別市街地で利別川と合流する本別川から名付けられました。気候は内陸性で冬の寒さは厳しいですが、積雪は比較的少なく、晴天日数が多いため畑作に向いています。林業を産業基盤とした町でしたが、近年では農業が主体。畑作は小麦・豆類・テンサイを生産。酪農も広く行われています。稲作は自給的なものが小規模に行われるのみです。第二次産業は木材加工、農産物加工が主です。

1915年4月 本別村となる。
1921年4月 西足寄町(現足寄町)を分村。
1933年5月 町に昇格、本別町となる。


本別町カントリーサイン

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足寄町(あしょろちょう):8,315人(△6.3%)

 足寄町は十勝の東北部に位置し、東は雌阿寒岳を経て阿寒町及び白糠町に接し、南は本別町、西は上士幌町、北は置戸町、陸別町及び津別町に接しています。 地勢は概ね山麓をもって構成され、東西66.5km、南北48.2kmでその面積は1,408.09kuです。(2005年1月まで日本一広い面積を持つ市町村。2006年3月19日まで道内で最も面積の広い自治体。現在は、高山市、浜松市、日光市、北見市に次いで第5位。)

 気象は、十勝内陸気候の影響を受けるため、寒暖の差が極めて大きく、降水量は少なめです。冬は晴天の日が多く、降雪量は少なく日照時間が長いです。町名の由来は、アイヌ語の「エショロ・ペツ」(沿って下る川)から。
牛の飼育が中心で、飼育頭数では肉用牛が多いですが生産額では乳用牛が上回ります。かつては馬産も盛んでした。畑作は甜菜と小麦が中心で、バレイショ、インゲンなども生産されています。また広い町域の8割を山林が覆うため林業も盛んです。その森林面積は、117,715haで東京都特別区の約2倍の広さです。このうち町が所有している森林は8,702haあり、約半分が人工林となっています。

 足寄町の東に位置する螺湾(らわん)地区には、日本一大きなフキとして全国的にも有名な「ラワンブキ」が自生しています。草丈2〜3m、草の直径が10cmにもなるオオブキ(アキタブキ)の仲間ですが、砂質の土壌と豊富な螺湾川の水資源、周辺の樹林によって、これほど大きく育つと考えられています。食用にも適しているため、農業・観光・商業の各分野で利用され、町の特産品になっています。また同地区からは、今から2,500万年前の海の動物の化石が見つかります。古いタイプのクジラや奇妙な海生ほ乳類デスモスチルスの仲間などです。とても特徴のある動物の化石が見つかるので、これらは足寄動物化石群と呼ばれています。

1955年4月 中川郡西足寄町、足寄郡足寄村を合わせて設置。


足寄町カントリーサイン

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陸別町(りくべつちょう):2,956人(△8.4%)
陸別町物語

 町名の由来はアイヌ語「リクンベツ」に「驪群別」の漢字を当てたのが文献に残る最初のもの。根室支庁(当時は根室支庁管轄内)が開拓使に提出した文書にこの記述が残っています。「驪」の字を当てたのは、当時はこの辺りに野生の馬がたくさん見られたことにちなんだと考えられます。やがて「驪群別」は「淕別」となり、第二次大戦後の当用漢字が定められたのを機に現在の「陸別」、読みも「りくんべつ」から「りくべつ」に改名されました。

 周りを山に囲まれた盆地のため寒暖の差が非常に激しく、真冬は−30度以下になる事もしばしば。冬期最低気温の平均が日本一低い町として知られます。平成10年に銀河の森天文台がオープンし、落ちてきそうな星たちを観察できます。また冬季は稀にオーロラが観測され、運がよければ肉眼で見ることもできます。
 四半世紀の歴史をもつ「オフロードレース」や「しばれフェスティバル」など民主体のまちづくりが活発で、平成13年には世界的ラリー大会、WRCの誘致にも成功。また最寒の地の利を活かし、南極における国家プロジェクトや企業の各種耐寒テストなど多くの実験が町内で実施されています。

 陸別の開拓の歴史と紐解く上で忘れてはならない人物が、関寛斎です。寛斎は、現在の千葉県で生まれ、18才から蘭学を修めて長崎にて西洋医学を学び、後に徳島藩医となります。しかし、明治35年72才の時、今の陸別町内、斗満(とまむ)原野の開拓を志し、徳島から入植。大正元年、寛斎は自らの夢を四男、又一に託し亡くなります。陸別に道らしい道ができ、国有鉄道網走線が開通となったのは、寛斎の入植後の話です。交通の発達は、陸別にも入植戸数の増加をもたらし、農場づくり、子供たちの教育、青年会の組織、さらには文芸雑誌“交友”“北潮”の発刊など、酷寒の地にも豊かさを見い出していきます。大正8年、足寄外3村戸長役場から分離して陸別村が誕生しました。寛翁没後8年のことです。

1901年 斗満に関又一が入植する。
1902年 斗満に関寛斎(関又一の父)が入植する。
1919年 淕別外1村戸長役場が設置される。
1923年4月 二級町村制が施行され、淕別村(りくんべつ)村となる。釧路国支庁管轄。
1948年10月 釧路国支庁から十勝支庁に編入。
1949年8月 陸別村に改称。
1951年4月 西足寄町(現足寄町)の一部を編入。
1953年9月 町制施行、陸別町となる。

 ▼陸別町役場公式サイトはコチラ
 陸別町

 陸別町商工会

 銀河の森天文台
Rally japan  Rally Hokkaido

陸別町カントリーサイン

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浦幌町(うらほろちょう):6,070人(△11.3%)

 十勝エリア最東部、釧路エリアとの境に位置し、町域は浦幌川の流域を占め南北に長くなっています。白糠丘陵の西縁部にあたり、大部分は丘陵と台地で、林野が総面積の7割を占め、南部は太平洋に面しています。町の南端、浦幌川下流部から十勝川河口にかけて平地が広がっており、畑や牧場として利用されています。農業は畜産が中心です。

 古くは馬産地(軍馬、釧路種)の一つでしたが衰退、第二次世界大戦後は浦幌炭鉱の炭鉱と酪農地域へと移行します。炭鉱は尺別炭鉱に集約していましたが閉山。肉用牛の生産、畑作が盛んで、ばれいしょと甜菜の収穫量が多くなっています。

 明治2年、十勝国十勝郡に属し、同年静岡藩の支配を経て、同4年開拓使の直轄となりました。この頃、当地域にはベッチャロ、トカチ、オヘコハシ、アイニウシ、オホツ、ヲサウスの6ヶ村が置かれ、同13年十勝外四郡戸長役場を独立させ、生剛の地に戸長役場を設置。この間岐阜農場などの農場と団体、単独入植が相次ぎ本格的な開墾が始まります。
 明治36年、浦幌〜釧路間の鉄道が開通し、浦幌駅も開業したことから役場を浦幌に移転、本格的な村づくりが始まり、同39年4月1日には二級町村に指定され、生剛村、愛牛村をもって生剛村となり、同45年には浦幌村と改称しました。昭和29年町制を施行して浦幌町が成立、翌30年大津村の東部を編入し現在に至っています。

 町名の由来 浦幌町とは、アイヌ語の「オーラポロ」が転訛して浦幌となり「オー」は草の葉、「ポーロ」は大きいので「川尻に大きな葉が生育するところ」と言われています。

1900年(明治33) 大津村外六ヶ村戸長役場から十勝・生剛・愛牛の3村が分離・独立し、生剛村外二ヵ村戸長役場を設置する。
1906年(明治39) 二級町村制が施行され、生剛(せいごう)村となる。
1912年(明治45) 浦幌村に改称。
1954年(昭和29) 町制施行、浦幌町となる。
1955年(昭和30) 大津村の一部を編入。
1999年(平成11) 開町100年記念式典が行われる。


浦幌町カントリーサイン

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